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Heaven’s Radio ”MICHAEL”


窓の外の街明かりたちが
あんなにも歪んで見えるのは
雨粒のせいか涙のせいか
わからなかった

手首が痛くてたまらない
まるで茨が巻きついたように

じゅんと濡れたベッドのシーツ

お守りだったオレンジのピルケースも
今はぬけがら

もう少しで見つかるはず
生まれたときの本当のわたしが

もうすぐつかめるはず
あのときの自由をもう一度

今ここでまぶたを閉じて
静かに眠るだけで
すべての願いは叶うのに

なぜなの
ちっとも眠くならないで
頭は冷たく冴えわたるばかり


知らない街のもの悲しいこのモーテルで
子どものころの楽しかった思い出や
ずっと忘れていたような昔のことを
今さら思い出して泣くなんて


ねえ なぜなの
枕元の古ぼけた有線から
いつの間にかノイズが響いて
うるさくて眠れやしないじゃない

ぶつぶつと途切れる音の合間から
どこかで聞いたことのあるような
懐かしい声が聞こえてくる


「ハーイ。こんばんは。天国のみなさん、素敵な夜をいかがお過ごしですか? パーソナリティの天使です。愛する我らが地球では今日も雨が降っています。ある場所では晴天、どこかでは朝、その反対側は深い夜。天使は今日も大忙し。我々天使のスウィートホーム、この天国も今宵は多数決により雨降りとなりました。ということで此度の天国のラジオ、冒頭は同じく雨に包まれた地球、アメリカ合衆国西部のアイオワ州から、現地の様子をリポーター係の天使より報告していただきましょう。天使さん、お願いします」

「はい。現地からお伝えします。こちらアメリカはアイオワ州。今日は11月14日。時刻は深夜2時22分。おやっ、なんて素敵な数字の並び。天国にてお聞きの皆さん、しばしお時間を。これにあやかり地球の一層の幸せをお祈りさせていただきます」

「あっ、ずるい。それなら私も」



すぐ近くの遠いところで
トライアングルの音色が響いた
心地のいい かすかな耳鳴り

かたわらに寄り添う
だれかの気配


「さて。こちらアイオワ州では今夜いっぱい弱い雨が降り続きますが、雨雲は日の出とともに東へ去るでしょう。お天気担当のC班は西の空に虹の用意をお願いします。続いて当地区担当の天使による只今の活動をお伝えします。まず、昨夜午後8時ごろ、我々天使一同が大パニックに陥ったダイアーズビル在住のマリアさんの愛猫、白猫のミーナさんの脱走劇についてですが、彼女は以前逃亡を続けており……」

「天使さん、天使さん。どうしました? 申し訳ありません。天候のせいでしょうか、音声が乱れているようです。天使さん、天使さあん、応答願います。うーん参ったなあ」

「うるさいわね。いい加減にしてよ。眠れないじゃないの」


天井を見上げたまま悪態をついた
こんなに大きな声が出るなんて
死ねる気がしないわ

やっぱり真っ赤な嘘なのかしら
手首を切ったら死ねるとか
薬を飲んだら死ねるとか


「おやっ。混信でしょうか。すみません、ええと、そちらはどちら様?」

「こっちが言いたいわよ。あんたたちいったいなんなの。あんまりふざけた仕事してるとぼてくりまわすわよ」

「ええっ、こわい。我々はみんないつだって大まじめなのに」


いいえ わたしやっぱり死ぬのかも
だってこんなの
どう考えてもおかしいもの

もしかして ここは天国?
いいえ そんなはずない
まだこんなに胸が痛いもの


「ねえ。白猫ならさっき見たわよ。ミーナかどうかはわかんないけど、このモーテルに車を停めたとき、道路を横切っていくのが見えたわ。ミルクボトルという名前のさびれたモーテルよ。青い目の、きれいな猫だった」

「それは間違いありませんね。ミーナさんでしょう。我々が入手している目撃現場にも近いです」

「はやく捕まえてあげてよ。こんな雨の中じゃ病気になっちゃうわ」

「お任せください。しかしミーナさんもストレスがあるみたいですからね。我々が聞き込みを行った近所の猫さんたちの話によれば、近頃ミーナさんのお宅に捨て猫が保護されたとかで、"自分という猫がありながら、ほかの猫を迎え入れるなんて心外極まりない"、と、ずいぶん腹を立てていたみたいですから。我々が察するに、家出の可能性が高いです。発見できた際には説得が必要でしょう」


わたしはくすんと鼻で笑った
この人 本当に大まじめなのね
ふざけてるとしか思えないけど


「あなたはいったい何者なの」

「天使です」

「名前はないの」

「私ですか? ミカエルです」

「ミカエル。大天使でしょう。ずいぶんとお偉いさんじゃないの」

「そうでもないです」


少しずつ 少しずつ

指先が冷たくなってきた
まぶたが重たくなってきた

あなたの声が心地いいから
あなたの声が懐かしいから


「私、映画を思い出したわ。あなたの名前を聞いたら。マイケルっていう映画よ。ほら、ジョン・トラボルタの…」

「あの映画は私も大好きです」

「私は好きだなんて言ってないわ。嫌いよ、あんな映画。安っぽくて、ばかばかしいったらないもの」

「そんな。私は好きですよ。なにせ私を映画の題材にしてくれてるんですからね。嬉しくって、撮影中は気になって私もちょくちょく現場に行ってました。近くで見ると、トラボルタさんはけっこう大きかったです」

「天使って本当にあんななの。あんなに太めで、砂糖が大好きで、いつも調子のいいことばかり言ってるの」

「どうでしょうねえ」


はぐらかすように天使は笑った


「ねえ。ついでだから聞くけど、アダムとイブって本当にいたの」

「えっ。アダムさんとイブさんですか? もちろんいます。最近はお仕事で忙しいみたいですけどね。200年ほど前からでしょうか。お二人は心機一転してりんご農園を始められまして、それが大成功しているようです」

「そんなことはどうでもいいのよ。りんご農園なんて興味ないわ。私は前からあの人たちに言いたいことがあるの。今度会ったら、私がこう言ってたって伝えて。あんたたちが知恵の実を食べさえしなければ、私たち人間は、今も楽園にいられたのよって。こんなに苦しい思いをせずに済んだのよって。あんたたちが食べた知恵の実は、さぞかし美味しかったんでしょうねって」

「あ、はい。そう聞いてます。ですからお二人はその味を再現しようと日夜改良に励んで…」

「本当にばかね、嫌味で言ってるのもわからないの?」

怒鳴ったとたんに
また涙がはらはらと溢れ出してしまう
冷え切った頬を熱い涙が伝っていく



「なぜ泣くんですか」

「悲しくなったの。あなたの心が綺麗すぎるから」

「悲しくさせてしまったのなら謝ります。心が綺麗ですみません」

「私もそうなりたかったのに、今からじゃ遅いわ」

「そんなことないですよ」

「いいえ。遅いの。だってもうすぐ死ぬんだもの。私は今夜、ここでひとりきりで死ぬんだもの」

「なぜ死ぬんですか?」

「理由ならたくさんあるのよ。でも、もう言葉を尽くして過去を語るのはやめたの。そんなことをしても余計につらくなるだけだから。誰かにわかってもらいたいなんて思わない。今の私を見て、人が自由に想像するだけで十分よ。それが間違っていても、真実とほとんど同じでも、私にはもうどうでもいいことだわ。だって、その人にとってはそれが私のすべてなんだもの。でも、突き詰めればやっぱり、すべてはアダムとイブのせいなのよ」

「悲しいことがたくさんあったんですね」

「天国にも悲しいことはあるの?」

「それが不思議なことに、悲しいこともあるにはあるんですが、なぜか幸せなんです」

「そう。素敵ね」


私はほほ笑みながらそう言った


ぬぐっても ぬぐっても
目尻から涙が溢れ続けて

目眩とともに
身体が軽くなっていく

羽のように
白く柔らかな羽のように


「私が天国に行ったら、会ってくれる?」

「もちろんですとも。あなたが帰ってきたときは、天使全員で駆けつけます。あなたが生まれる前から、あなたをずっと見守り続けてきたのですから」

「本当?」

「ええ、信じてください。そのときは歓迎のしるしに、私からあなたへとっておきのプレゼントを贈りましょう」

「プレゼントなんてもらったことない。家族も友だちもいなかったもの。私、天国に行ったら、友だちがほしい。ずっと一緒にいられて、私を心から必要としてくれる誰かが」

「ぴったりの子がいますよ。私のとなりで、いつも一緒にあなたを見守っていた子です。猫さん、なんですが」

「いいわね。ええ。私、猫がほしい。親友になれる気がする。茶トラの猫なら、マイケルと名前をつけるわ」

「素晴らしいことです」

「大切にするわ。約束する」

「わかっています。もう安心しておやすみなさい」

「私はその子を、世界でいちばん幸せな猫にするのよ」


私は深く穏やかな眠りに落ちていった


夢のなかで
私は誰かの腕に抱かれていた

大らかなからだと温かな腕は
ゆりかごのように私を包み

私は宇宙の波間を漂いながら
いつかの懐かしい日々を見た

悲しみも喜びも
憎むことも許すことも
出会いも別れも

すべてが安らぎに包まれて
宇宙は 世界は
小さな光を放っていた




白い光の眩しさに目を開けた


太陽に照らされた雨水が
ひさしからいくつも滴っている

あんなに痛んだ傷は跡形もなく
シーツは洗いたてのようにさっぱり乾き
薬はケースごとなくなっていた


私は荷物をまとめてふらふらと表へ歩き出た

馬鹿みたいに大きなレンタカー
そのボンネットに
青い目の白猫が座っている


「ミーナ?」


彼女はつんとした顔で頷き
待ちくたびれたといったふうに
大きなあくびをしてみせた



ターコイズブルーの首輪には
金色に輝く丸いチャーム

私はミーナをサイドシートに乗せて
そこに刻まれた住所をたずねた


ドアを開けてくれたのは
まるまると太った
気の良さそうな女性だった


この人がマリアにちがいない

マリアはミーナと喜びの声で名前を呼ぶと
彼女を強く抱きしめた


ミーナは相変わらずつんとして
それでもまんざらでもなさそうに
のどを鳴らして目を細めた


二人を見つめる私の足元で
そのときなにかが動きまわった

見るとそこには猫がいて
私をまっすぐ見上げていた


「身寄りがないの。よかったらもらってくれないかしら。女の子よ」




マリアは困った顔でそう言った

私はその茶トラの猫を抱きあげて
マイケル と名前を呼んでみた

私とマイケルの瞳の奥で
ちらりと懐かしい光が弾けた

彼女の瞳に映る大空

西の空には
きれいな虹がかかっていた



私は旅を続けよう


車のエンジンをかけると
勇み立つように車体がぶるりと大きく震える


サイドシートに座るマイケルは
りりしい視線を前方に向け
いかにも頼れる相棒だ

アクセルを踏み込もうとしたその瞬間

「あなた、お礼にこれを持っていって」


呼びとめられてブレーキを踏む


息を切らして走り寄るマリアに渡されたのは

木箱いっぱいの
みずみずしく愛らしい

真っ赤に熟れたりんごだった





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