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石にかじりついてでも?



今朝は気持ちのいい天気だったので散歩をしてきました。

考えなくてはならないことはやはりたくさんあって、いつも「散歩しながら思考を整理しよう…」と思いながら家を出るのですが、歩き始めると不思議と頭の中が空っぽになります。いい意味で頭が働かなくなるというか…。

何にしても、何気ない自然の風景の美しさには、もう言葉もない。本当にいいものの前ではすべてが意味を超えてしまって、言葉や思考や感情ではその素晴らしさにまったく追いつけなくなる。そんな気がします。

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ところで写真とはまったく関係がない話なのですが、私は最近、無意識にせよ、意識的にせよ、人が本気で望んだことは大抵叶うんだろうなあとよく思います。その望みに反する隠れた本音がなければの話ですが…。

というのも、たとえば私の場合、「ミスタードーナツが食べたい!」と思ったら、その日のうちに誰かが差し入れでミスタードーナツを買ってきてくれたり、

唐突に「ゆでだこが食べたい!」「いくらが食べたい!」などと思ったときも、誰にも話していないのに、前の職場の人や友人がその日のうちにスッとくれる、ということが、今までに多々ありました。

ケンタッキーも柿もお団子もヤンヤンつけボーもマスカットも、食べたい!と思うと、自分で買う前に、何も言わずとも不思議と誰かが与えてくれる。


また、以前三菱のパジェロミニに乗っていたころ、エンジンコンピュータ?が故障してしまい、その他の不具合の修理も合わせて見積もりが40万くらいになってしまったことがありました。

どうしようかな…と思っていたとき、ふだんはあまり連絡を取らない友達がラインをくれて、これも誰にも事情を話していなかったのに、「スバルのレガシィがいらなくなったから乗らないか?」と言ってくれました。あの時は本当に助かった。ありがとう…。

そして冬用タイヤがパンクしてダメになってしまった時も、やれやれ…と思っていたら、私が通勤等でいつも前を通るガソリンスタンドのお兄さんが、無料で譲ってあげるよ!と言って、なんと本当に無料でブリヂストンのタイヤを譲ってくれた。

(そのお兄さんは私が職場に行こうとしてガソリンスタンドの前を通った時、タイヤの音がおかしいことに気づいたらしく、わざわざ工具を持って職場まで来てくれた…ありがたい…。)

また、私は普通自動二輪免許を持っているのですが、取得直後は中古で買ったボロボロのホンダ・GB250クラブマンに乗っていました。ガロガロとうるさく音を立てる、やれた感じがかっこいいバイクでした。でも私は免許を取る前からカワサキのNinja250に憧れていて、いつかは乗りたいとずっと思っていたのです。

それで、これはちょっとした運の良さかもしれませんが、現物を見てみたいなあ、でもネットで検索する限り近くにはなさそうだ…と思っていたところ、ある日自宅から車で5分ほどの場所にあるバイクショップにモデルもカラーもぴったり希望通りの品が入荷され、実際にお店に行ってみると足つきも乗り心地もすごくいい。顔つきのかっこよさもすっかり気に入って、即座に購入を決意。

私は立ちゴケがひどく、すぐに傷だらけにしてしまいましたが、バイク仲間と30人くらいで連れ立って九州や関西にツーリングに行くなど、そのバイクとショップの方々のおかげでとてもいい経験を積むことができました。

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それから一番不思議だったのが(お金の話ばかりで恥ずかしい)、今年の夏頃、生活環境を整えるためにどうしても必要なものがあり、買えるのは買えるけれど、状況的に(なにせ無職)ちょっと怖いなぁと思い、買う前に試しに天に祈ってみようと、「かみさま…3日以内に必要なお金をください…」と心の中で念じてみて、そのあとしばらくは祈ったことを忘れていました。

するとその二日後、銀行のアプリから「入出金がありました」との通知が届き、月末だったので、きっと携帯料金か保険料が引き落とされたのだろうと思いながらなんとなく開いてみたら、身に覚えのない入金が二件。

な、何のお金!?怖い!と思って調べてみたところ、どうやらひとつは市からの入金(何かのお金が返ってきたらしい、よくわからない(おい))で、もうひとつも思いがけないところからの入金で、それは親切心の塊のようなお金でした。

その二件をあわせた額が、必要な費用よりちょっと多いくらいで、これもまたありがたいことでした。

(そんな具合で、普段からたくさんの人に助けてもらったり、親切心を恵んでもらったりして生かされている人間なので、自分のところで終わらせずにきちんと循環しなければ、みんなに顔向けできないぞと、定期的に気合を入れています…。)



その他にもいろいろな偶然があってひょんなことから望みが叶うことが多いのですが、少しも叶いそうにないこともたくさんあって、それはやっぱり、めちゃくちゃ叶えたいけど、叶うのが怖い!と思っていることが大きな原因のひとつになっていると思います。

私はこの7年間、石にかじりついてでも叶えたい、とずっと胸に抱いている夢があるのですが、叶うのが怖い、叶っても後悔したらどうしよう、このまま夢を追いかけ続けていたら大変なことになってしまうんじゃないか、そもそも自分なんかが叶えられるわけがない、ただの恥晒しじゃないのかと、内心はちっとも穏やかでない状態です。

私にとってそれは生きている限り一生の夢であり続けるものなので、石や、なんなら岩にかじりついてでも自力で叶えてみせようと自分に誓ってはいるのですが、何と言ってもアクセルとブレーキを同時にベタ踏みしているような状態なので、どうにも夢に向かってまっしぐらに進めないところがあります。(というか才能があれなんですが)


反対に、たぶん「私にはゆでだこを食べる資格がない…」「ヤンヤンつけボーを食べて大変なことになったらどうしよう…」などとはあまり思わないから、ゆでだこやヤンヤンつけボーは手に入りやすのでしょう。

あと、「ミスタードーナツが食べられないくらいなら死ぬ!!!」とか「絶対に何としてでも天からタイヤや車やバイクを降らせてみせる!!!」という執着や意気込みもなく、「そのうち自分で何とかするけど助けてくれたら嬉しいなぁ」くらいに思っている状態でいると、本当に何とかなることが多かった気がします。

それに対して、将来の夢は本気で叶えたいからこそ頭はかちこち、目は血眼になり、絶望感に陥ってばちぼこに自分をバッシングしてしまい、そのせいで視野を極々小さな範囲に狭めてしまっているんだろうなと思います。

だからこそ、色々な界隈で今の自分を認めることが大事だとか、受け取る許可を自分に出してあげることが大切だと言われているんだなあと、この頃は改めて感じます。自分の人生に関わるような大きな望みの前にあってこそ、その望みに左右されず、自分の本来の価値を乗っ取られず、それがすべてじゃないとゆったり構えていることが大切なのでしょう。

なんだかスピリチュアルなお話になりましたが、人生は希望があってこそ発展していくものだし、人が望みを叶えて豊かに生きていけるなら、それが事実、たゆまざる努力によるものだろうと、不思議な力によるものだろうと、神頼みの結果によるものだろうと、なんだっていいのかなと思います。

何にせよ、自分がこうありたいと望む生き方に忠実であれば、きっと道は開けると、私は信じたいです。






……なんてことを無職が申しておりますうううう!!!

すみませんでしたああああああ!!!

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