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『体育教師を志す若者たちへ』後記編9    5.25事件から考える教師の仕事-②

 前回は今年5月25日に長野県中野市で起きた殺人事件から、こうした事件を防ぐ一助になるのではないかと考えられる教員の仕事、特に人間関係作りについて述べました。私が7月に教員養成大学の特別講義に呼ばれて学生たちに話した内容で、今回はその続きになります。今回の内容は、この事件のことを特別講義で取り上げる前に、ある学生さんからいただいていた質問の回答です。ちょうどその回答は今回のような事件を防いでひとりひとりが豊かな人生を送っていく上でも重要になると考えています。

 その学生さんは保健の「欲求やストレスへの対処と心の健康」単元の模擬授業をしたのだそうですが、いじめや自殺などの深刻な例を出してしまい、授業の空気が重くなってしまったとのことでした。そこで、「保健の授業を行う上で、いじめや自殺などデリケートな部分にはどう向き合っていくのか聞いてみたい。ストレスに関する授業をするときに通らなければいけない部分なのか、授業で取りあげる際はどんな配慮をて生徒に接するのか、あるいは授業では触れずに気になった生徒に後で話を聞いてみるなどの形をとる等のほうがいいのか」というのです。

 私の答えはこの学生さんの考える後者の考え方、つまりいじめや自殺などのデリケートな部分については、教科授業なので私の方からあえて取りあげることはしません。保健体育の授業であれば、学級の生徒ひとりひとりの心の状態や学級内の人間関係を細かく把握できているとは言えないからです。あえてデリケートな部分は避け、そういう状況に陥らないための人間関係の作り方や日々のストレスの解消法について爽やかに語り合える授業にしたいと考えています。そしていじめや自殺といった問題については学級の状況をよく理解している学級担任が、その授業が必要な時と場合に応じて学級活動や道徳の時間に扱うべきと考えます。その授業については特別講義では触れられませんでしたが、今回の最後の方でお話したいと思います。保健授業としての「欲求不満とストレスの解消」、あるいは性教育などについても、それらは明るく爽やかに語り合える雰囲気で授業を進めたいと考えています。 

中学1年生、「欲求不満やストレスへの対処」の授業

 私が保健の授業でよくやってきたのは、スライドに示したような黒板への板書です。まず授業に参加している生徒全員に、自分の場合はストレスを感じた時にその解消法としてどんなことをするか、黒板のところに出てきて書いてもらうのです。ひとつしか書けない生徒もいるし、いくつも書ける生徒もいる。黒板がストレス解消法でいっぱいになります。

みんなで黒板の前に出てきて自分のストレス解消法を書き出します

 そして全員が書き終わったところで、黒板に書かれたストレス解消法をひとつひとつみんなでチェックしていきます。このスライドの例で示したように、「ゲーム」は必ず出てきます。そして元気な男子生徒の中には、妹や弟に「あたる」「いじめる」などと平気で書いてくる生徒もいます。「壁を蹴る」、「人を殴る」などと書いた生徒もいました。こんなことを書くと周りの友だちに笑われたり、本人もにやにやしたりします。そうした明るい雰囲気で正直に書いてもらうことが大事です。そして生徒たちは、自分はひとつかふたつしか思い浮かばなかったのに、友だちのストレス解消法を知ってこんなにたくさんあるのかと驚きます。
 次に黒板に書かれたたくさんのストレス解消法の中で、自分にとってストレス解消になるものはいくつあるか、数えて手を挙げてもらいます。ひとつかふたつしかないという生徒がいる一方で、あれもこれもとたくさんのことがストレス解消になるという生徒がいます。そのことをみんなで確認します。そしてこんな話をします。

〇「ストレス解消法がゲームだという人は手を挙げて下さい(たくさん挙がります)。でもそのゲームを親に怒られて取りあげられてしまったらどうしますか? なおさらストレスが溜まるよね」。
〇「ゲーム以外でストレス解消法がある人はいいけど、ない人は、ゲームができなくなれば壁を蹴ったり、人にあたったり、そんなことしかできなくなる。そしてますます追い詰められてしまう。これは悲しいね」。 
〇「読書がストレス解消法になるという人は手を挙げて下さい」。何人かいます。
〇「スポーツをすることがストレス解消法になるという人は手を挙げて下さい」。これも何人かいます。
〇「料理をすることがストレス解消法になるという人は手を挙げて下さい」。これも少しはいます。
〇「歌を唱うことがストレス解消法になるという人は手を挙げて下さい」。これも何人かいます。
〇まとめとして、「読書、スポーツ、料理、歌を唱うなど、これらはストレス解消になる人とならない人がいる。これをしたら自分はますますストレスがたまるという人もいるかもしれない。でもいくつものことがストレス解消法になるという人は幸せな人だよね。いやなことがあってもいろいろな人生の楽しみ方ができる。実は読書、スポーツ、料理、歌を唱うなどはみんな学校の授業でやっていることだね。先生たちはそれぞれの面白さを知ってほしいから音楽や体育、技術家庭科などの授業をしているし、朝読書もさせているのです。面白さをたくさん知っていてストレス解消法になるという人は、その人の人生を豊に幸せにできる。好きな者どうしで新しい仲間ができるかもしれない。いやなことがあっても乗り越えられる。学校の授業ってそんなためにもあるんだよ」と。 

 私自身学生の頃はスポーツばかりしていて静かに読書することなどは苦手な方でしたが、定期テストの前などで部活ができなくなった時は、勉強に疲れてくると不思議と読書がしたくなったものでした。好き嫌いは固定していると思いがちな生徒たちですが、人の気持ちはいろいろな経験を通して変わっていくことに気づいてほしいと思います。
 先日人気の若手社会学者がテレビのバラエティ番組で、自分は体育が嫌いで学生の頃はやらずに見ていた。跳び箱を跳ぶなんて何の意味があるのか、そんなこと学校でやらなくても今の自分には全く関係ない、と体育の授業を否定して得意になっていました。果たしてそうでしょうか? 一方であるネットニュースで池上彰さんは、学校で勉強するのは、「いい大学へ入って、いい会社に就職する」ためではなく、人生を豊にするためなのだと言っていました。その社会学者が受けた跳び箱の授業には問題があったのかもしれませんが、今回の保健の授業から考えれば、跳び箱を跳べることも、体育の授業も、人生を豊にするためなのではないでしょうか。こうした勉強、読書、スポーツ、その他様々な趣味や能力をもつことで人生をより豊に過ごしていける可能性が広がります。学校の授業は文化的教養に触れたり身につけていったりするものなのです。

 夏目漱石の『草枕』は、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。・・・・兎角この世は住みにくい・・・」で知られる作品ですが、そこには「あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにする・・・」とあります。池上彰さんの考えと同じです。学校の勉強はそのためにあります。

  いじめ、自殺・・・
 最後にこの重苦しい問題について。私が最後に赴任した中学校は、過去にいじめを苦に自ら命を絶った生徒を出してしまった学校でした。そういう学校であることを私は以前から知っていたので覚悟をもって赴任しました。従って市全体としても人権教育には特に力を入れてきています。
 すでにこの事件の裁判は和解して結審しているので、若い先生方の中には知らない人もいます。生徒たちもたぶんほとんど知らないと思います。保護者や地域の方たちは知っていますが、ふだんはほとんど口にしない、したくない、つらい過去のできごとでした。学校では毎年人権教育月間があります。事件が起きてそれを学校として乗り越えてきた時期に「〇〇中学校人権宣言」ができ、亡くなった生徒の命日には全校で黙祷もしていたようです。しかし年月が経って私が赴任した頃には学校教育として直接この事件の詳細に触れることはほとんどなくなっていました。

 私はこの学校に赴任したとき、このことは今の生徒たちにも伝えていかなければならないと思いました。そこで私はネット検索も含めてこの事件についていろいろと調べ始めました。当時のことを知る教職員はすでに転勤していなくなっていましたが、ひとりだけ定年退職後に図書館職員として再任用されていた方がいました。私は放課後時間をとって司書室へ行き、当時の状況について詳しく話を聞くことができました。亡くなった生徒は、「あの4人にいじめられた」という遺書を残して突然命を絶ったのですが、先生方は本当にいじめに気づかなかったようです。研究授業の準備や日々の忙しさの中で気づくべきサインがあったのかもしれないが、それに気づけなかったのではないかと言っていました。家族も全く気がつかなかったとのこと。
 最近報道されるいじめ事件は、以前から本人や保護者からサインが出ていたのにそれをきちんと受け止めなかった学校や行政の責任が問われる事例が多いですが、この事件は周りの人が気づかずに普通に生活している中で突然起きた悲しい事件だったようです。この事件では最終的にはいじめた生徒を特定することはできず、公にされませんでした。しかし、いろいろな資料からいじめた本人たちは分かっているという情報もありました。「今後はこうしたいじめは絶対に起こさせない」と教育委員会が約束したことで、亡くなった生徒の両親が苦渋の決断をして和解し、結審したのです。

 私はこのことを人権教育月間に自分のクラスの授業でとりあげました。こういう事件について授業をするのは、クラスの仲間関係が安定していることが必要だと思います。冷静に客観的に考えられるからです。この事件の悲しいところは、いじめた生徒は公にならなかったものの、亡くなった生徒の保護者には目星がついていたようです。従って亡くなった本人とその家族の悲しみだけでなく、いじめた生徒たちも一生その思いを引きずって生きていかなければならくなったようです。この授業の後、何年かしてから亡くなった生徒の父親にお会いする機会がありました。そこで父親が話してくれたのは、あのとき自分から申し出て謝ってほしかった。私は犯した罪を追及するつもりはもうない。自ら謝罪できずにあやふやなまま終わったので、彼らはこの町にも居づらいだろうし、一生その思いを引きずって生きていかなければならなくなってしまったと。
 この授業のポイントはまさにそこにあったと思います。単純に被害者と加害者という構図では片付けられない。そこにはそれぞれに家族がいて、地域があります。 

 教材価値の決め手

 道徳が教科化されて教科書ができました。それで授業をやればいいと思っている先生方がたくさんいます。しかし私自身のこれまでの経験から、教科書のような特別に作られた資料では身につく学習にならないのではないかと最近思い始めています。今回のいじめの事例を学んでいくと、生徒たちからはたくさんの疑問や意見が出てきます。教師が詳細に事例を調べてあれば、ここまでは分かっている、しかしその先は分からないということが言えるし、疑問に対しては生徒たち自身でもネット等で調べていくことができます。そうした過程で自分の考えを深めていきます。
 しかし教科書のような作られた資料では疑問があっても答えが分からないのです。教科書に書かれている範囲でしか物事を考えていくことができません。道徳教材としてよく文学作品が使われることがありますが、これも同様で道徳用教材として原文が変えられてしまっていることもあります。今年の学校体育研究同志会全国研究大会で私は「体育理論の授業作り分科会」に参加しました。この分科会では以前から『星野君の二塁打』という道徳教材について検討してきました。野球部員の星野君が試合中に監督から出たバントの指示に従わず、フルスウィングをして二塁打を打ったというもので、それをどう考えるかという教材です。今回はその原文の文学作品にあたることができました。そこで分かったことは、道徳教材としての『星野君の二塁打』はその文学作品の一部であり、内容もやや変えられている。そしてまた、その教材を読んで出てくる疑問の答えになる内容が実は教材前後の原文の中では記されていたりするのです。私はこれまで中学生と一緒に読んできた道徳教材の『星野君の二塁打』と原作との違いに驚きました。

 一方、原文を全て読んでも作者の意図が計れない部分はあります。そこがもしかしたら作者が読者に考えてほしかった内容なのかもしれません。そこに作品の価値があるような気がします。そして私は原文なら授業になると思いました。なぜなら、ここまでは分かっている、でもこの先は分からない。作者はどう考えていたのだろう、あなたならどう考えますか、というように議論が深められるからです。しかし、一部しか見せてもらえず、しかもそれが意図的に修正された教材だとなると、教師が意図的に道徳的価値を押しつけていくためにそう作られたのだろうし、戦前の皇民化教育ならいざしらず、ひとり1人が自分の考えを深めていくためには行き詰まってしまうと思うのです。
 「道徳の教科化、道徳教科書に反対!」というのはまさにそのことだろうと思えてきました。私の現職時代はほとんどの期間を通して道徳の資料教材はありましたが、道徳の教科書はありませんでした。その資料教材も私はあまり使わず、自分で資料を集めて授業をしてきました。東日本大震災や御嶽山の噴火などについても扱い、新聞記事などを多く資料として使ってきました。そこで疑問に思ったことはネットで調べることもできます。生徒たちが書いた作文や感想文なども学習資料として使ってきました。そうした生の事例だからこそ当事者の思いを深く知り、考えを深めていくことができるのだと思います。

 今回の保健授業「欲求不満とストレスの解消」についても、そこにいる生徒たちの生の解消法が示されているからこそ、「えっ、なんで料理をつくることがストレス解消になるの?」といった質問が出てくれば、当事者がそれについて答えてくれるので相互理解が深まっていきます。そして5.25事件について振り返ってみると、様々なことに興味をもって広い趣味があり、そのつながりで仲間もたくさんいれば、何か嫌なことがあっても気持ちを変えて人間関係を修復したり、好きなことをやって気を紛らわしたりしていくことができるのだろうと思います。そしてそのことによって人生がもっと豊になり、平和な社会になっていくのではないでしょうか。それが教育の仕事です。



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