インプロとの出会いと今

インプロとはインプロビゼーションのことであり、即興を意味する。

音楽やダンスなど、表現の世界で幅広く用いられる表現手法でもある。

その中でも、演劇の中でのインプロのことについて、出会いと今とのことを話していきたい。


私が初めてインプロと出会ったのは恐らく2019年の春。某市にて行われた演劇企画に飛び込んで参加した際、全国的にも活躍しているインプロバイザーのもとで指導を受け、インプロショーを行うことになった時だ。このときインプロのことなど露知らずであり、そのインプロバイザーとの出会いは今思えば奇跡的なものだったと思う。

それから10回ほどのレッスンを経て夏の演劇イベントでショーを行った。私はレッスンの段階でもうインプロの虜になっていた。

それまで私は台本のある演劇しかしたことがなかった。どちらかというとなんか大変、どこか面白くない、労力に見合わない。そんなことを思ってやっていたところがある。稽古でやるワークも無理をして笑わせないといけないなどと思っている自分がいたり、誰よりも目立つためにはなんていった考えがあって望んでいたところがある。本当に苦しいものだった。

でもインプロは違った。正確に言えばインプロバイザーがとても上手な人で、インプロを楽しいものと教えてくれた。ワークに毎回意図があると感じられ、自然と台本がないことは気にならなくなって言ったのだ。

相手のために関わりながら、自由になりつつ、みんなでこの時間を作り上げていこうという安心感の中で行うインプロ。演劇はこういう世界もあるのかと、衝撃だった。

そして私が私らしくいられるのはここだと感じたのだった。

同時に、人は一人一人本当にありのままの姿が素敵なことを深く知った。かつ、心理的安全性が保たれた場で、手腕のあるインプロバイザーのもと行うインプロの中では、人が本当に愛おしく感じられることを知ったのだった。以来私は「この人インプロやったらどうなるんだろうなぁ」という興味でみることが増えた。仕事上悩み困っている人達と出会うが、この人がインプロをやっていったら…なんてことを傍らで思い描いたりもしている。

今の話にシフトしてきているが、インプロは日常でも私に大きな影響を与えている。
例えば、どの仕事場でもだいたい誰とでも笑顔で自分からかかわれるようになったり、声をかけられたときに一言連想を添えて返すことができるようになってきていたり、コンビニの店員さんと一言会話したり、新幹線の座席を倒す際に後ろの方に簡単に声をかけられるようになったり、といった変化が私の中にある。

また、否定から入ることがほとんど無くなった。仕事の性質や日々の人間理解とが相まって、まず一言目に同意や共感的理解を示す言葉が出るようになった。それから話を受けて感じたことや浮かんできたことを返してコミュニケーションが取れるようになってきたとも感じている。

それまでの私は、コミュニケーションが下手も下手だった。一方的で、自分軸でしか物事を判断できないところがあり、友人にはかなりショックなことを言われたこともあった。そのおかげで変わりたいとも思えたのだが。

つまるところ、インプロを続けると日常生活が楽になる、と感じてきているのである。また脚本舞台を行うにしても、相手を見てセリフを聴いて受けて感じるという意識が生まれ強まったり、万が一セリフが飛んでもあまり慌てふためく必要はない、なんとかできると、余裕を持って舞台に立てるようになった。

私にとってはいい事だらけだ。

しかし、だからといって安易に多くの人に勧めることはしない。なぜなら表現は怖いものだからだ。内側の暗い部分から、自分でも把握しきれていない自分がでてくることもある。人を傷つける可能性もあり、それで自身が傷つくこともある。他にも自分が思うように表現できないなか、周りの人達が自由に表現出来ているところを見て辛く苦しくなってしまう人もいる。

ワークの組み方を雑にしていたり、ワークの意図が明確でなかったり、参加者のニーズをそっちのけでやってしまったりするとひとりひとりが不満を感じ始めて場がちぐはぐしていってしまう可能性もある。

これはいいと感じたものほど疑う。誰よりも扱えるものほど誰よりも疑う。

今は亡きお方の仰っていたことだ。

このことは忘れずにこれからも研鑽を積んでいきたい。

つらつらと綴ったが、今は自分のインプロスキルを上げながら、私も教える側になりたいと思い始めている。信頼できる人たちに協力を仰ぎながら。

個人的に大事なことを述べていなかったが、インプロは楽しい。だから続けたいとも思っている。同じワークをしても相手が変われば、時が変われば、また変わったものが生まれる面白さがある。

道具など一切使わず、生身の身体だけで誰かとこれだけ楽しめることを、私はほかに知らない。

何も持たない、生身の身体の人間の可能性にワクワクしてしまう。どこへ行っても誰とでも通用する力が培われていくことになにか積み重なっていくものを感じて止まない。


追記
台本舞台が面白くなかったのはその稽古場、座組の雰囲気の大部分を作る演出の力量によるものだとここ最近明確にわかった。言葉を選ばずに言うと、素人にろくな演出やってる人はそうそういない。演出は稽古場にて、演出としての力と演出をするその個人の人間性が露呈される。役者はそれを強く感じている。

今の座組の演出に出会うまで、私は酷い演出家気取りの人達にしか出会ってきていなかった。演劇学校あがりでもなければろくに演劇や演技、演出の勉強をするわけでもない人がやるのだからそれはそうなるだろうと当たり前にわかることだ。

演出は別に偉くない。なのにふんぞり返る人ばかり、自分の思い通りにしたい人ばかりだ。あんたらのコンプレックスに付き合ってられないよ私は。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?