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「運」について

今朝の関東は雲一つない秋日和ということで、全然関係はないですが、
今日思いついた「運」について、持論を語っていきたいと思います。


・なぜ「運」について話そうと思ったか?

人間は色々な力を持っていて、その力、言い換えれば実力で「結果」を得る。
じゃあ、「結果」は実力だけで得られるのかというとそうではない。
「運」ももちろん関わってくるはずだ。「運」だけが全てとは言わないが、
極論を言えば、この世の物事は大まかに二択に分けることが出来る。

それは、「運」が良かったか、悪かったかである、という考えから、
「運」について軽く突き詰めてみようと思います。


・「運」とは何か?

全ての力である、実力、行動、生命など、これら見える物に対して、これらと密接な関係を持つ、目には見えない「運」の存在。
麻雀やギャンブル、スポーツ、全ての真剣勝負の世界では、運は言い訳にされがちであるが、高度にその技術を高めた者達からすれば、
それは正しい。なぜなら、「運」とは目にも見えないし、科学的に証明された事象ではないからである。
では、果たして「運」とは単なる都合の良い言い訳や謙遜に過ぎないのか?という謎が残る。

ここで一つ普遍的な理屈をあげれば、「運」のいい人悪い人というのは、自他ともに結果論を根拠として、良い悪いを決めている。
その理屈によると、人は自他ともに何の情報も無い他人の将来を考えて、あの人は「運」が良い、悪いということが分からないということである。
この理屈が、「運」の本質を物語っている。そう、「運」とは自他から見た先入観の産物であるのだ。
それは個人的な意見だが、言い換えれば、今まで「運」が良かった、悪かった人の将来の「運」についても分からないということだ。

ただし、その自他による先入観である「運」が、その人のパフォーマンス、いわば「結果」に影響を与えることは十分にあり得ると私は思う。

・結論
「運」とは結果論に基づく先入観であるので、今まで「運」が良かった、悪かったことから、将来の自分や他人の「運」や「結果」までは分からないということ。
しかし、その先入観が、将来のパフォーマンスである「結果」に影響を与える可能性は大いにあるということ。
ここからは持論だが、
この「運」という先入観をうまく利用できる場面は多くあるんじゃないか?と思うこと。
その場面は主に過去の自分を周囲が知っている環境に多いんじゃないかなと思います。
ただし、自分の自信の根拠を、今までツイていたからと思っている人は一人でも強みを発揮するのかも知れません。

結果として、「運」は結果論に基づく先入観だと分かってしまって、神秘的なパワーを期待していた自分からすればがっかりするような内容でしたが、
私は自分の自信の根拠の一つとして、「今までツイていたから」と思うポジティブシンキング野郎なので、これからも頑張りたいと思います。

※追記
どうしても「運」の神秘性を諦めきれずに検索していると、「奇跡」というワードがヒットしました。
「奇跡」とは、統計学上でも限りなく可能性の低い事象や、およそ常識では考えられないできごとに対して用いられる言葉で、
これらの「奇跡」は、「運」と密接なつながりがあるように感じます。
アダム・スミスの「見えざる手」ではありませんが、こうした不思議な力がよく身の回りで起こっている人は必ずいると思います。
その力の正体が必ずしも「運」であるとは言いませんが、理屈では説明しようのない「奇跡」が起こったとき、「運」が良いなんて皆言いますよね。
そんな説明の出来ない不思議な力である「奇跡」を引き寄せる人の事を「運」の良い人、と言うのかもしれませんね。


最後までお読み下さりありがとうございました。

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