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Playから始まる「やってみるPDCA」とは?

面白いことが起こっている、面白い人が集っている、そういう面白い場づくりで成功している人たちの話を聞くと、おおかたコトの起こりは「やってみた」で始まる。先は見えないけど、とにかくプロジェクトを始めてみました、起業してみました、移住してみました、みんなが集える場をつくってみました……。

そうした場では、デザインだけする人はおらず、計画を立てる人、進行管理をする人も実践の現場に出て自分のカラダを動かして行動している。デザインする人も現場のプレイヤーにもなっているのだ。

先日訪れた兵庫県西脇市のアパレルメーカーtamaki niime(玉木新雌)の工場では、デザイナーが古いゴッツい織機を自らの手で動かしたり止めたりして一点物をつくっていた。聞けば設計と生産を分けないのがこのブランドの方針だとか。

デザインの歴史は、18世紀後半からの産業革命によって大量生産が始まり、設計と生産が分離したことに端を発する。消費を促すため、流行に敏感で美的センスをもつ設計の専門家がデザイナーという職種になったのだ。

産業革命を牽引したのは繊維産業である。エドモンド・カートライトの力織機は1975年に作られた。その力織機を、tamaki niimeは一点物生産のために使っている。高速で織機を動かせば生産効率が上がる。しかし、ここでは機械を止めて、生産性を落とすことをあえて良しとする。一日100点程度できる一点物はすべて撮影してネットで売る。

おー!これこそ21世紀の新しいデザイン!だと強い衝撃を受けた。設計と生産はわけないが、ウィリアム・モリスのように機械(つまり大量生産技術)は否定せず、大量生産技術だからこそできる唯一性を実現して、それをネットで拡散する──。

シュッとした身なりのデザイナーが、プロセスの見えないブラックボックスから「これが私のデザインです」って取りだした完成品を魔法のようにありたがる時代も終わったし、東京の整理整頓されたクローズされたオフィスのなかで、ミーティングをしたりパソコンに向かいながら、デザインという名の「計画」を立てるだけで済む時代は、もう過ぎ去ろうとしている。

計画と生産が「行動」のなかで一体化する。それが「やってみる」ということではないか。大量生産技術(ものづくり)、AIやインターネット(情報)、高速道路網(物流・人流)が揃ってきて、それら技術やインフラをマスプロダクトやマスメディアのために使うのでなく、「やってみる」という個人の挑戦をサポートし、自立共生的(コンヴィヴィアルな)社会の創出に活用する。その姿勢こそ、これからのデザインではないだろうか。

そこで「やってみるPDCA」なるものを考えてみた。

PDCAは下のような図になる。PDCAとは、Plan(計画)Do(実行)Check(評価)Act(改善)の略だが、最初は計画を立てることから始まる。計画どおりに実行されないと、評価や改善というフィードバックの系が成立しない。つまり、実行は計画の後にある。

やってみるPDCA.001

しかし、「やってみる」は行動が先に来る。先立つ計画がない、いや、完全に計画がないわけではないかもしれないが、それは計画とか設計とか言えるものではなく、「なんとかなる」といったポジティブバイアスや、根拠のない自信や自己効力感、将来へのぼんやりとした展望であって、計画より行動が先に来るのだ。

行動が先に来るからと、Do Do Check Actというと何かしっくりこない。ここには創造的な局面がないからだ。Doは計画を実行するという受動的な行動のフェイズで、Actは、ふりかえりを踏まえて、自ら進んで改善の行動をおこすという意味で、実はActのほうが主体的行動であるから、じゃあ、Act Do Check Actにしよう……などと考えると訳がわからなくなってくる。

そこで次のように考えた。
PlanをPlayに替えてみるnをyに替えるだけだ。

やってみるPDCA.002

Playと言えば「遊ぶ」だが、この英単語には他にもいろいろな意味がある。競技する、演ずる、賭け事をする、作用する、など。

「やってみる」とは一種ゲームを行うことだ、人生を賭けたゲームである。だから、ここではPlayを「挑戦する」という意味で使う。遊び心があるから、新しいことができる。「あれもやってみよう」「これもやってみよう」という人には、遊び心が満ちあふれている。デザインするだけでなく、プレイヤーになるという意味も込めている。

やってみるPDCA.003

そしてPlayとDoが合わさると「やってみる」になるのだ。

やってみるPDCA.004

気づきは新しい挑戦を生む。気づきを拾い上げ、言説化し、分析・整理し、語りあい、そこで生まれた評価を改善という行動につなげられれば、「今度はこんなこともやってみよう」という挑戦心が育まれる。

好奇心や面白がる力を全開にして、「これやりたい」「あれやってみたい」と体験を楽しむマインドが、「やってみるPDCA」のサイクルを駆動させる活力源だ。

しかし、このサイクルだけだと、「デザイン=設計=計画」はどこに行ってしまったのか、という話になる。事業やコミュニティを持続的に成長させるには、未来を見通して計画を立てる必要がである。

そこで、下のように考えた。「やってみるPDCA」と「従来のPDCA」を結合させて、ふたつの循環を回してみる

やってみるPDCA.005

まずを上の図を考えてみた。PlayとPlanを目立たせるため、一番上に表示していた。しかし、Do(実行)でなく、この2つを結ぶのは「気づき」や「ふりかえり」だということに気づいた。評価とは「気づき」とも「ふりかえり」ともいえる。「気づき」や「ふりかえり」があって改善への行動が始まる。だから、評価を結節点にして、PlayとPlanの回路がつながるように考えた。すると下図のようになる。

やってみるPDCA.005


だが、この図だけでは説明不足だ。矢印はどのように循環するのか? PlayとPlanの関係は? そこでこの2つの循環(デュアルサーキュレーション)が形づくられるまでの過程を説明しよう。

やってみるPDCA.006

起点はあくまで「Play」である。しかしPlayには当然計画性が欠けるので、このサイクルは、従来のPDCAのように効率良く回らない。やってみたけど失敗した、実際しくじりばかり、といったことが起こりうる。だが、Playのマインドセットは、つまづいたけど、じゃあ次はこれをやってみようと、失敗から何かを学び、ふたたびPlayを始めていく。

やってみるPDCA.007

しかし、「やってみる」という行動が仲間を呼び寄せたり、失敗から学んだり、何かのきっかけで、やってみたことがうまく行き出す。すると、持続的に事業を成長させていったり次の大きなプロジェクトを成功させていくために、失敗を減らす必要が出てくる。「計画」を立てる必要が出てくるのだ。行き当たりばったりが過ぎていると、経済を回すことができない。人を雇うことも自治体から助成してもらうことも銀行から金を借りることもできなくなる。

やってみるPDCA.008

計画を立てると従来のPDCAサイクルが起動する。そして、この2つのPDCAサイクルをつなぎ合わせる。結節点はCheckである。こうしてPlayからPlanに流れるルートができあがる。

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挑戦から生まれた「気づき」を基に、後付けで「計画」をつくるのだ。これが「やってみる」から始まるデザインだ。Playは創造の起点であり、気づきやふりかえりは循環の基点となる。

好奇心・チャレンジ精神・面白がる力などPlayを育む開かれた姿勢が、創造の幅を広げていくそれを絞り込んで計画に落とし込んでいく。デザイン思考の言葉を使うと、「発散」したものを「収束」させる局面である。さらにデザイン思考に引き寄せると、Playはプロトタイピング(Prototyping)ともいえるが、デザイン思考がいうプロトタイピングとの違いは、Playは工房やオフィスの企画室のなかでの作業に収まらないという点だ。デザイン思考のプロトタイピングは、Planを生む過程の一部だが、しかし、逆である。PlanはPlayの一部である。

なぜならPlayは人の生き方に関わる問題であるからだ。Playに満ちた人生はウェルビーイングへとつながる。Planに満ちた人生は、Planを満たすことに強迫されて満たされなさに満たされる。

Playにあふれた社会は豊かな社会といえるのではないか。そうした生き方や社会のあり方のためにPlanがある。だからPlanはPlayの一部なのだ。

実際に物がつくりだされ現場、人のつながりが生まれる現場で、より良く生きるための現場密着のプロトタイピングがPlayなのだ。

やってみるPDCA.010

こうして8の字を横にしたデュアルサーキュレーションが生まれる。従来のPDCAは、トヨタの工場のような閉じた世界で最適化の更新を繰り返すシステムとしては有効に機能するが、イノベーティブな創造はあまり得意ではない。システムが外に開いていないからだ。Playはつねに外に開かれた姿勢である。

ただし、この8の字だけで循環しているわけではない。Playの循環も、従来のPDCAサイクルもともに自律的に回っている。そして、その自律的循環がつながり合い、共生するように持続的に回っているのが、この「やってみるデュアルサーキュレーション」である。

やってみるPDCA.011

デザインは拡大しつづけている。しかし広がっているけど、薄っぺらくもなっているような気がする。拡大するデザインに対して定義づけがされていないからだ。

しかし、デザインを計画や設計と考えるのでなく、この2つの循環全体を「デザイン」と呼ぶことで、拡大しつづけるデザインが輪郭が見えてくる。拡大するデザインとは「PlayとPlanを気づきでむすび、Playを起点にPrototypingを繰り返し、そこから生まれたProjectを社会に実装する終わりなき創造的Process」(※)である外にもこう言うとデザインの力とかいう、デザイナーが好んで使う、何が力だか訳のわからない言葉も、こうして見ていくとぼんやりその力の本質が見えてくる。

設計と生産が分離して、大量生産大量消費のスピードに合わせて高速に創造的なものを生み出すことを強いられたデザイナーたちは、工房のなかで「やってみる」を始めた。それがプロトタイピングとかダブルダイヤモンドやリフレーミングなどのデザイン思考の枠組みを生むことになった。"Take a pleasure seriously."(楽しいことは真剣に)とチャールズ・イームズが語っている。バウハウスのオスカー・シュレンマーのトリアディックバレエもPlayだ。デザイン創世期から、工房にはPlayがあったのだ。

設計と生産の分離があいまいになり、デザイナーがフィールドプレイヤーになると、創造のためのPlayが工房から解き放たれて、社会課題を抱えるあらゆる現場に舞い降りたのだ。

これはデザインだけの問題ではない。「やってみるデュアルサーキュレーション」には終わりも完成もない。それゆえ、この循環はソーシャルデザインだけでなく、大量に市場に出回るのに、工場がなく設計と生産が一体化し、「試しにベータ版を出してみる」ができるITの開発現場と親和性が高いように思う。しかし、この循環はさらに広く、技術開発、科学研究、ビジネス、教育、医療介護などの、創造性を必要するあらゆる現場に活用できるはずである。

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追記:
ちなみに、この記事にアップしたたくさんの図も、ゼミのとき研究室のホワイトボードに図を「描いてみる」から始まっています。この記事も「書いてみる」から始めています。PDCAってなんか違和感あるんだが、PlanをPlayにしてみたら面白いじゃない?って思い付きから始まって、図を描いてみたら、意外と考えがまとまってきました。Playが起点になって回っていく「やってみる」は創造的な作業だということは、この原稿を書く体験が自己言及的に証明していると思います。

(※)ここでProjectという言葉を使ったのは、イタリア語でデザインを意味するプロジェッタツィオーネ(Progettazione)を意識しています。Projectは投影するという意味もあります。社会に構想を投影するということですから、ここでは実装するという言葉を使っています。定着だと、定着しておしまい、その後の変化まで対応している言葉ではないと判断しました。

注記)2021年12月6日12:40 図を大幅に入れ替えました。(具体的には2つの循環をDoで接合するのでなくCheckで接合するモデルにしたために後半の図版が総入れ替えとなりました)


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