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没頭し始めると・・・のあれそれを超えていく
こんにちは、すずめです。
「ひとりひとりが自然体で生きる世界」をコンセプトにお話聴く人やってます。
「こころを開く習慣化」はじめてます。
(さらに自分に還る14日間チャレンジ3日目)
自分がやりたいことは何なんだろうか、ということで、起電力が少なくて済む小さなことから取り組んでいます。
没頭し始めるとはみ出るので、はみださないように。
没頭し始めるときりがいいところがわからなくなるので、ほどほどに。
没頭し始めるとナチュラルに身体に無理がかかってくるので・・・
没頭し始めると人づきあいのポンコツぶりが甚だしくなるので・・・
没頭し始めると・・・
といった具合で、「そのことしか考えられなくなる」偏りによる影響を、なんと長いこと気にして生きてきたのだろう、と想う。
「自分のすべきことに集中するといい」
と言った人が、次の瞬間には
「ちゃんと場に合うことをすべきだ(自分のことに集中するなの意)」
と立場を変える。
小さい頃からこういうのが一番しんどくて、何も言わせないようにバランスしていたら、いろんなことがわからなくなってしまった。
誰かにとっての「いい子」って、こうなるのよね。
自分でも想う。
使い物にならない。
あーあ。
もちろんそんな側面ばかりではなく、「好き勝手ばっかやって」と言われる場面もあったわけなので、きっとそこそこ上々の人生でもあって。
いつしか「こころの服を脱がす人」というコンセプトをいただき、人様のお話を聴かせていただいたりもして、それもまた自分の一側面なのだと想う。
そして、さらに自分に還るチャレンジ。
「え、やっていいの?」のフェーズになったのも、
環境のお蔭。
仲間のお蔭。
自分だけでは、まだまだ無理だと想っていたんじゃないかな。
そういえば、昨年の今頃は、母は手術入院、わたしは父を強制退院させようと奔走していた。
自分ひとりでいる家の感じがふと甦ってきた、昨日の深夜。
あの生きた心地がしなかった日々から、いま自分のことを深めることに取り組めている不思議。
ついこの間のようなのに、なんて遠い。
痛々しい感傷とは異なる、祈りのような、宣言のような、
すーっと上へ上へと伸びていく感覚がしている。
没頭するとこれまでの調和が崩れ、本来性の調和が創造されていくだろう。
生き抜くための調和を手放すごとに、生かす調和がもたらされてるのを感じている。
「下手っぴでも関係なく振り切ってみたらいいよ」
って自分に言ってあげられる自分、いいと想いませんか。
そんなチャレンジしています。
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