ただ、「普通」に働きたくない、だけ。

もし、宝くじ1億円が当たったら、

この後、
どんな言葉を続けるだろうか。

私なら、
「働かない」(一択)だ。

働かずに生きていく
その手段としてのお金

が欲しいのである。

ブランドの○○○が欲しい。
車が欲しい。旅行がしたい。
などと、お金を使って、
何かを買いたい(したい)
わけでは、ない。

だから、

働けば(お金を稼げば)、
欲しいものが手に入りますよね?

的な、労働誘導尋問は、
私には一切効かない。


だが、働かずにはいられない。

残念ながら、
私は(富裕層に)飼われている犬猫
もしくは、存在自体が魅力的な、
その他の生き物
ではないため、
生活費を自己捻出しなくてはならない。

その点では、働くことに承服する。


では、どの程度、働くか。

生活に余裕があることに
越したことはないが、

不確実な未来の安定を担保に、
今現在を犠牲にすることは、
死んでもしたくない。

今、「問答無用で耐える」という
精神的犠牲を払わなければ、
「未来がない」のであれば、
今、死んだ方がましだ、とさえ考える。

私の人生における理想の労働量は、
生活が成り立つギリギリのライン、
のちょい上、辺りである。


「いや、普通に働けよ…」

と、思ったそこの貴方、
その「普通」とは、一体どの程度だろう。

単純に、
1日8時間労働を週5日(+残業)、
だろうか。

成長と自己実現、社会貢献を果たし、
人生を充実させる程度、だろうか。

私一人が生きていける分だけの労働
では、何がダメなのだろうか。


私が「普通」に働いても、

「そこそこ」働いても、
GDPは微動だにしないだろうし、
貴方の生活水準や仕事量にも
変化はないだろう。

私一人ならまだしも、
「そこそこ」しか働かない人が増えれば、
日本国内の経済力が低下する。それは、
国際社会における競争力の低下に直結し、
日本国力の低下に繋がる。

という、我が国の未来を憂慮しての
「普通に働け」発言だろうか。


愛国精神はとても尊い。

だが、それを隠れ蓑に、
「皆、嫌々働いてるんだよ、
だから、オマエも働け…。」

という本音
腹の中に抱えているのであれば、

貴方は、
「俺たちも代々受けてきたんだ」
という理屈で、後輩に理不尽を強いる、
体育会系の低次元な方々と同類である。

そちら(体育系底辺)側と
類友になるのであれば、
是非、こちら(労働意欲底辺)側へ。
もちろん、大歓迎だ。


社会の「普通」に納得できない。

正常なことについての考え方は異なる。正常なことは現実から見積もられるのではない。それはむしろ価値から見積もられる。

『ホロコーストとナクバ』
コワルスキー夫妻が歴史に挑戦したとき
著者:アロン・コンフィノ


正常=「普通」は、
我々の価値こうあるべき)で、
定義されている。

かつ、

「普通」から外れるものを、
正義を装いつつ、排除している。

その結果、どうなったのか。
(結婚を例に考えてみる)

男性は、
「普通」の収入がないと
結婚は不可能だと思い込み、

女性は、
結婚条件として
現在では非現実的な収入
男性に「普通」に求める。

子供不在の夫婦と、婚外子とその親は、
結婚=子供を持つ、
という「普通」の意識により、
理不尽な境遇に晒される。


「普通」にこだわっても、

誰(※)にも良いコトがないし、
誰(※)も実質的な得をしない。

私はそう思う。

※「普通」という基準で括ることにより、
一定水準の維持一括管理が容易になる、
支配者層は除く。

労働形態において、
終身雇用という唯一の「普通」
普通でなくなり、
転職も「普通」になったように、

様々な分野における
「普通」の再定義(アップデート)
必要ではないか、と考える。

だから、
「普通」に働くことに、
労働量における「普通」に、
強い抵抗と疑問を感じる次第である。


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