【駅伝と競馬と、ギャンブルと金】競馬に品格はあるか
駅伝のテレビ中継を
ぼんやり見ていた時、
各区の区間賞を当てた視聴者に、
抽選で現金をプレゼントする
そんな企画が存在することを知り、
過去のモヤモヤがよみがえった。
◼️何が不適切?
学生の頃、
駅伝のキャッチコピーを考える授業で、
私が考えた文章、
「選手と馬を
決して間違えてはいけない」
は不適切であると、
教師から指摘を受けたことがある。
実は、当時も今も、
何がどんな風に不適切なのか、
納得できていない。
◼️駅伝を競馬に例えるのが不適切?
競馬場で疾走する馬と、
駅伝の選手を同列に扱うことが、
競馬場で馬に目を奪われる人間と、
路上で選手に声援を送る人間を
同一視することが、
不適切だ、と指摘されたような記憶がある。
◼️人を馬に例えるのが不適切?
馬は「走る芸術品」と言われようとも、
人間の品格と他の動物のそれとは
比べ物にならないのだ。
当時の私はそう考えて、
(無理やり)納得していた。
ウマを娘に例えたものが
世間に大ウケした事実を知るまでは。
◼️駅伝応援はプライスレス?
動機に金が絡むと、
応援の価値は、物事の品性は、
失われるのだ。
当時の私はそうも考え、
(無理やり)納得していた。
駅伝中継の、
区間賞予想企画を見るまでは。
◼️ギャンブルは下品?
私は運もなければ、
数字(確率)に強くもない。
だから、
私はギャンブルに手を出せないだけで、
ギャンブルを楽しめる人を見ると、
どちらかと言えば、とても羨ましく感じる。
その羨ましさとは、
学生時代では
イケている人を見て反射的に感じる、
社会人になってからは、
(安定した)高収入を得られる職業に就く、
運と才能と努力能力を持つ人の存在を
知ったときに否応なく感じる、
相手の煌めく境遇から放たれる光で、
自分のいる場所にできた影を認識する、
そんな類いの感情だ。
つまり、
私のギャンブルに対するイメージは、
薄汚れた格好で、馬券を握りしめ、
負けた腹いせに罵詈雑言を吐く、
といった品性を欠くものではない。
◼️そのギャンブルイメージは捏造?
私のギャンブルに対するイメージは、
きらびやかなカジノそのものである。
それはギャンブルで莫大な利益を得た
資本家が作り出す豪華絢爛なハリボテだ、
という意見には賛同しかない。
実際、
ギャンブルは
胴元に利益が出るよう設計されており、
オンラインカジノの勝率はイカサマだ。
ギャンブルの利益のほとんどは、
誰彼構わずギャンブル依存症にしたて、
彼らの苦痛を超効率的に換金したものだ。
◼️悪いのはギャンブル?
しかし、その上で私は反論する。
ギャンブルに対して抱く
我々の負の感情とは、
ギャンブルを提供し、
そのビジネスモデルを構築した
人間の作為に向けられたものであり、
ギャンブルそのものとは
本来、無関係なのでは、と。
アルコール、ニコチン、
仕事、ゲーム、ネット、SNS、
それら依存症発生のリスクや事実から、
酒、タバコ、労働、スマホなど、
「それ自体が諸悪の根源だ」
とは社会の誰もが考えないように。
◼️それでも競馬は不適切?
ギャンブル(競馬)に対する嫌悪感とは、
自らにのみ都合の良い仕組みを創り出し、
多額の金を一極集中させ、
公正を装って業界を運営し続ける
人間(国や企業)に対して抱く、
我々の感情(イメージ)である。
私のこの持論を踏まえてもなお、
駅伝と競馬は
同列に扱うものではない。
そう言い切るのだとしたら、
それは競馬に対する
完全なる偏見ではないだろうか。
競馬自体の品格を疑うことは、
騎手、馬の調教師、馬主をはじめ、
競馬に関わる全ての立場にいる方を
蔑むことになる。
今も昔も、そう考えているからこそ、
駅伝と競馬を絡めた私の発想を
不適切だと見なす根拠が理解できず、
いまだにモヤモヤしてしまうのだ。
そもそも競馬は、
格式高い、
超ハイソな
貴族の遊び、
ではないか。
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