死誘発の周波数(私の希死念慮について)
10代の頃、私が感じていた希死念慮は、
ゆる~く現実的な問題に阻まれていた。
生まれた育った場所は田舎で、
高い建物がなかった。
(飛び降りる場所がなかった。)
また、それ以上に、
「死ぬまでのアクションが面倒臭い」
というやる気の無さが
希死念慮を上回っていたように思う。
その気になれば、
無気力さえ「生きる力」
と捉えることが
可能なのかもしれない。
●マジで死にたい5分間
雨宮処凛氏の本だったか、
(あやふやな記憶の情報で、恐縮だ)
本気で死にたくなるのは、
たった5分間だけ
という旨が、
伝聞推定で書かれていた(ように思う)。
マジで死にたい5分間を、
何とかやり過ごすことが出来れば、
人は死に至らずに済む、らしい。
しかし、
問題はそう単純ではない。
希死念慮と共に生きてきた方なら、
共感していただけるだろう。
MS5
まじで
死のうと考える
5分間
を、一度でも経験してしまうと、
それは何度でも、やってくる。
どこからともなく、やってくる。
メリーさんみたいに、
丁寧な事前連絡は、ない。
そして、もっとも厄介なのは、
一度MS5から逃れられたから、
次もMS5を上手くかわせる保証はない、
ということだ。
一度乗れたら、ほぼ一生乗れる、
自転車とは違う類いのモノなのだ。
●MS5のポテンシャル
(希死念慮と共に生きている)
当事者以外の多くの人は、
希死念慮が本当にどんなものなのか、
あまり理解していないように思う。
自死した近親者がいるとか、
自死により残された者の悲しみだとか、
そんな感情は、
強烈な希死念慮の前では
無力に等しい。
強烈な希死念慮は、
何者も(当事者でさえ)抗えないほどの
強力な引力を持つ。
希死念慮の誘惑に負けるか勝つかは、
ただその時の状況や、運次第だ。
当事者の価値観や、周囲の介入で、
何とか出来るものではない。
時として、希死念慮は
生存本能と同じくらい
強力なのである。
そこに理性や理屈、
特定の価値観は全く適用できない。
できることと言えば、
希死念慮の強烈な周波数に、耳をふさぐ。
その周波数に囚われないよう、祈る。
ただそれだけだ、と思う。
●希死念慮との再会
歳を取った今、10代の頃と比べ、
はるかに機動力があり、
わずかだが経済力を得た。
希死念慮(特有)の周波数に捕まったら、
果たしてうまく逃げられるだろうか。
そもそも、
逃げる気になれるかどうかさえ、怪しい。
その一方で、
10代の頃の希死念慮を、
ひどく懐かしく思う。
希死念慮を前にすると、
今さら会いたくもないが、
どうしても忘れられない旧友と
再会するような感覚になる。
希死念慮に面識のある方なら、
理解していただけるだろう。
希死念慮とは、
己のアイデンティティー(の一部)である。
アイデンティティーである限り、
都合のよく制御したり、
忘却することは不可能なのだ。
それこそ、
死がふたりを分かつまで。
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