選ばれる女におなりなさい【表題】を読んで
選ばれる女におなりなさい
デヴィ夫人の婚活論
ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ/著
タイトルしか読んでません。 m(__)m
図書館で、この本の背表紙を見て以来、
一度も、手に取っていない。
現時点では、読む予定もない。
だが、このタイトルを一目見ただけで、
強烈な思いが胸の奥から込み上げてきた。
私は、選ばれる側ではなく、
「選ぶ」という、
主体側でありたい。
と。
●受け身の戦略と、そのリスク
婚活である以上、
相手の意向は無視できない。
だから、
まず、相手から選ばれる側に回る。
自分が選択権・最終決定権を持つために、
(複数の)相手から選ばれる側に回る。
その戦略は、決して間違っていない。
しかし、そのリスクはどうだろう。
・私は選んだ
【選択の主体=私】
・私は選ばれた。
・私は選ばれなかった。
・私は選べなかった。
【選択の主体=私ではない】
人生で後悔するとき、
最も苦しく、何よりやりきれないのは、
自分で選んでいない
自分に選択権がなかった
こと(時)ではないだろうか。
自分が選び取ったものであれば、
【選択の主体=私】であれば、
どんな(最悪の)結果であっても、
涙とともに飲み込み、
経験という血肉にすることが可能だ。
しかし、
戦略的にでも受け身になってしまったら、
【選択の主体=私ではない】ならば、
あらゆる(最悪の)結果から、
マウントポジションで
一方的に殴られるだけだ。
目の前にあり
与えられた(選ばされた)選択肢の方が、
断然好条件の場合もある。
が、後悔する可能性を考えた時、
私には、後者のリスクの方が耐えられない。
私は、運命には逆らわないタイプだ。
かといって、運命に従順ではない。
●表題が指し示すもの
とても大切なことなので、繰り返す。
(この文章中で、最も重要なことだ)
私は、
この本の、タイトルしか、
読んでいない。
タイトルを一目見た、その勢いだけで、
私はこの文章を書いた。
おそらく、昭和であれば、
間違いなく受け入れられるタイトルだ。
だが、今は(平成を通り越し)令和である。
女性自身が、人生における主体性と
自己決定権を持つことが、当然の時代だ。
目指すべきは、
「選ばれる女」ではなく、
「選ぶことのできる女」だろう。
それでも
選ばれる者であれ、
「あえて、受け身をとれ」
とは、一体どういう戦略だろう。
私が思い描く
前時代的な受け身ではなく、
時代の変遷により編み出された
超戦略的な令和的受け身だろうか。
この本を読む予定はない、
と冒頭で断言した。
だが、今、ほんの、ほんの少しだけ、
内容が気になり出している。
(令和における、受け身、とは…)
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