「食べる」=基本的にグロい。
「食べる」ことは、お好きですか?
「食べる」ことと、
生きることは直結する。
だから、
今、生きている方は(おそらく)
「食べる」ことが好きなハズだ。
◼️ナメクジ=グロい?
「キャベツを食べられなくなった」
という友人がいた。
理由を聞くと、
ナメクジが付いた
キャベツを目にして以来、
生理的に受け付けられない
そうだ。
◼️牛タン=グロい?
キャベツと疎遠になった彼は、
「牛タンそのものは見ない方がいい」
とも言っていた。
食材としてカットされる前の牛タンは、
そのフォルムが「生々し過ぎる」から
らしい。
◼️鶏肉=グロい?
友人の知人は、
焼き鳥が苦手らしい。
鳥をしめる現場を実際に見て以来、
どうしてもダメになったそうだ。
◼️牛肉=グロい?
私はテレビで、
食肉加工中の牛を見たことがある。
頭部を切断し、皮を剥いだ状態の牛が、
天井から大量にぶら下がっていた。
血は一滴も滴り落ちてはいなかったが、
その光景を前に(無意識に)
眉間に力がこもる。
それ以来、
私は牛肉を食べられなく…
は、ならなかった。
◼️食欲=グロい
私はなぜ、
今でも牛肉を普通に食べることが
できるのか。
それは、
頭部と皮膚がない状態の牛が、
小さく切り刻まれた途端、
私の意識はそれを
〈牛〉→〈牛肉〉へと
認識を改めるためだ。
まるで、
スイッチが切り替わるように
ごく自然に。
〈牛〉の状態で感じていた「グロさ」が、
〈牛肉〉になった瞬間に完全消滅する、
非常に不思議な感覚だった。
そして、
意識の「都合のよさ」に
とても感動した。
この感覚がおそらく、
「生きる」ことなのだろう、
と確信したからだ。
◼️「食べる」こと=グロい
一度でもその味を知ってしまえば、
ほぼ無条件に【生き物→食べ物】となる
私の思考回路は、清々しいくらい現金だ。
そして、
【食べ物=生き物】という感覚が
(消失すると表現してもよいほど)
希薄になる私の思考回路は、エグい。
では、キャベツや牛タン、鶏肉に
苦手意識を持つようになった
彼らの思考回路は、
私のそれと違うのだろうか。
いや、
彼らの思考回路も、
同じくらい現金で、エグい。
キャベツ以外の他の野菜にも
ナメクジは付着する!
牛タン以外の、ハラミやホルモンは?
牛肉や豚肉も、鶏肉と同じ行程がある!
という想像力を、自らの思考回路から
キレイさっぱり消し去り、
キャベツや牛タン、鶏肉以外のものを、
彼らは今も普通に食べられるからだ。
◼️「生きる」こと=グロい
「食べる」ことには、
生物(のナマの屍)を加工する行程が
必ず伴う。
至れり尽くせりの食材に囲われていると、
ついつい忘れてしまうが、
店頭や食卓に出される前の食材とは、
基本「グロい」部分にまみれている。
直視できないほどのグロい現実を前に、
自らの食欲を(意識的でも無意識的にでも)無条件に全面肯定できる神経こそ、
何よりもグロテスクだ。
そして、
その「グロさ」を受け入れる感性こそ、
「生きる」ことに他ならない。
◼️現実=グロい
視覚過敏で
ビジュアル重視な方に、
忠告しておこう。
貴方は絶対、
出産に立ち会わない方がいい。
生命誕生の瞬間とは、
非常に神秘的で感動的でもあるが、
同時に、どうしようもなく
血生臭くて、「グロい」。
(ナメクジや、牛タンの比ではない)
「生きる」こと=「食べる」ことで、
どちらも本能的であるがゆえ、
「グロい」ことを否応なく含む。
現実を「生きる」こととは、
「グロさ」にまみれることなのだ。
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