見出し画像

マリリンと僕15 〜2人の母親〜

その日は朝から空は薄暗く、今にも雨を降らしそうな雲が空を満たしていた。

お昼前にマリリンのいるホテルに向かい、昼食を食べ、一度実家に荷物を取りに戻って東京に戻ろうと考えていた。ホテルは遠くないが、移動を繰り返すから出来れば雨は降らないでほしかった。母に「ちょっと行ってくるね」と伝えて実家を出た。

相手がマリリンだったからお昼の誘いを軽く受けてしまったが、よく考えたら、世界的に有名なデザイナーであるマリリンの母と食事を共にするのである。そのことに気づいた瞬間から、ずっと軽い動悸が続いている。

幼少期から引っ込み思案で人見知りだった。典型的な、母親の後ろに隠れてしまうタイプだ。人前に出ることは極力避けて生きていたが、成長するにつれ、ルックスだけでも女の子にモテることを自覚するようになり、少しずつ自信を持てるようになった。それでも緊張しやすい性格は変わらなくて、役者を目指すようになってからも自分の出番の前は、いつも同じように軽い動悸がする。

マリリンのいるホテルまではバスで10分程度。歩いて行くことも可能だけど、雨に濡れるのが嫌だったから、バスを使った。にわかに張り詰めた緊張感を映す鏡のように、ホテルに着くまでの間、曇天の空から雨が降ることはなかった。

バスを降りて、「あっ」と呟いた。
ホテルに着いたは良いが、何処に行けば良いのか聞いていなかったのだ。

落ち着きなく周囲を見回していると、入口にいた若いホテルマンが僕の所に来て「お待ちしておりました」と言った。制服の胸に付いているネームプレートには木村と書いてあった。マリリンが画像と名前を見せて「この兄ちゃん来たら案内してあげて」と伝えてくれていたのだそうだ。気が利くなぁと感心した。

木村さんに案内されるがまま、たどり着いたのはホテルの最上階にあるスイートルームだった。木村さんがノックをすると、部屋の中から「はーい」とマリリンの元気な返事が聞こえた。

「兄ちゃん、来てくれてありがとう。あと、キムも案内してくれてありがとう」
キムというのはホテルマンの木村さんのこと。ちゃんとお礼を言えて偉いね。
「いいえ」
木村さんは膝を曲げてマリリンに目線を合わせ、にっこり笑ってそう言った。それから僕にも会釈をして、持ち場に戻って行った。
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
僕もマリリンにお礼の言葉を返した。

マリリンの顔を見ても、動悸はまだ止まらない。お母さん、どんな人なのだろうと思うとどうしても落ち着かなかった。お父さんもオーラのある人だったが、それでも男性だから大丈夫だった。相手が女性というだけでも緊張の質は異なる。しかも、一般人のお母さんとは意味合いが違うのだ。部屋もテレビでしか見たことのないような豪華な造りで、余計に緊張感を煽られる。窓の外に見えるのはジャグジーだろうか。

「オカン、兄ちゃん来たでー」とマリリンが大きな声で呼び掛けると、少し離れた場所から「今行くわー」と返事が返って来た。

間もなく現れたのは、身長が僕とそれほど変わらない、モデルのようなスタイルの美人だった。髪は黒髪のショートカットで、化粧も至って質素なものだ。マリリンから聞いていた年齢は40代半ば。年齢より若く見せようとしているというより、その年齢の美しさを自然に引き出しているような印象。醸し出すオーラに圧倒され、動悸がよりクリアに感じられた。

「こんにちは」
笑顔で挨拶をしたそのイントネーションは、やはり関西のそれだった。が、そこを除けばマリリンとの共通項が見当たらない。
「こ、こんにちは」
緊張から、挨拶すら上手く言えない。
「あなたってわかりやすい人ね。驚いてますって額に書いてあるわよ。まるでキン肉マンみたい」
前にも誰かに言われたような。そしてキン肉マンを知ってることにも、少し驚いた。
「すみません」
「謝る必要なんてないわよ。来てくれてありがとう。楽しみにしてたわ、未来のスーパースターさん。アタシのことは真里亜って呼んでちょーだいね」
ハートマークが付きそうなニュアンスでおどけてそう言ったが、呼べるわけがない。

それにしても、隣でニヤニヤしながら緊張している僕を見ているマリリンとは、どれだけ目をこらして見ても似ても似つかない。
「兄ちゃん、全然似てへん思てるやろ」
親子揃ってお見通しですね。余程僕はわかりやすいのだなと、ちょっと切なくなる。
「ウチな、ばあちゃん似ぃやねん」
マリリンがそう言うと、真里亜さんがスマートフォンを取り出して画像を見せてくれた。
「うわっ」
思わず声に出してしまった。そこに映っていたのはマリリンとそっくりな、ぽっちゃり体型に細くて垂れた目の、日本人形のような女性だった。服装は…全面に虎の顔が主張したデザインのワンピース。方向性は違うけれど、灰汁の強さはマリリンそのものだ。

「うわってなんやねん」マリリンがぼやいた。
「祖母はもう亡くなってるの。でも、隔世遺伝ってすごいなって思ったし、真里凛を見ていると母の強い意志を感じちゃうのよね」
どういう意味で言ったのかはわからないけれど、何か思うところがあるのだろう。
「祖母もデザイナーだったの。ただ、アタシと違って、ターゲットを狭く絞ったデザインに拘ってた」
確かに画像に映っていた虎柄のワンピースも、一見すると奇抜だが、デザインとしてはまとまっている印象だった。

真里亜さんは気さくで壁を作らない人だった。少なくとも、ハッピーターンのことでキレるような人とはまるで思えなかった。
「今日はオカン、他所行きやな」とマリリンが言った時に、一瞬目つきが変わったようにも思えたが、きっと気のせいだろう。気のせいだと思っておこう。マリリンはビクッとしていたけれど。

「食事を用意しておいたから食べましょう」
真里亜さんの先導でキッチンスペースに移動すると、そこには黒のコック服に身を包んだ女性のシェフがいた。シェフは僕に目を合わせて「佐野です」と言って会釈をした。佐野さんは小柄で、年齢はパッと見よくわからないが僕と同じくらいにも見える。
テーブルの上にはフルコースを食べる為の食器が用意されていた。なぜか僕の前にだけ。
「えっ」と言った僕に、真里亜さんが「アタシたちは別で用意してあるの」と言って見覚えのある容器を取り出した。
「吉野家、ですか?」
「そう。アタシたち吉牛大好きなのよ。パーティ行く度にコース料理ばかり出されて、なんだか飽きちゃったのよね」
話しながら慣れた手つきで卵を溶き始め、牛丼に回しかけた。マリリンはそのままで、真里亜さんは紅生姜と七味をたっぷり乗せている。
「汁だくに生卵がたまらへんねん」
マリリンが言うと、真里亜さんも頷いた。
「すみません、僕だけの為に」
作った料理を持って来てくれた佐野さんに、僕はなんだか申し訳ない気がした。
「気にしないで下さい。実は私も、吉牛大好きなので」
そう言いながら置かれた皿は、美しい彩りと盛り付けのアペタイザー。
「クロマグロのカルパッチョです。朝獲れたばかりの、新鮮なクロマグロですよ」
このクロマグロに限らず食材は全て、佐野さんが朝直接仕入れて来てくれた物なのだそうだ。海も山も近くにあるから、作り手としては最高の場所なのだと、佐野さんは言う。実際この後作ってくれた魚介類や山菜を使った創作料理は、どれも最高だった。最高なのだが、正面で「うんまぁー」と言いながら牛丼をかっこむマリリンと真里亜さんを見ると、どうにも複雑な気持ちになる。
「デザートです」
お茶を使ったムースに紅ほっぺをあしらったデザート。
「これはフレンチとかなんですか?」
長らくフリーターだった僕は、料理に疎い。
「私のは全部創作料理です。いろいろな調理方法を食材に合わせて組み合わせるの。一つの様式美を追求することはとても素晴らしいことだけれど、私は目的の為なら手段を選ばないタイプなんです」
にっこりと笑った佐野さんは、両のえくぼがとても可愛いらしかった。要するに、佐野さんにとっては、美味しい物を作るなら拘りは持たない方が良い、ということなのだろう。どちらが良いというわけではなくて。それはもしかしたら、役者にも通じる考え方かも知れない。
「アタシたちも食後のおやつ食べようかしらね」
真里亜さんがキッチンにある引き出しの一つを開けた。それを見たマリリンが小声で「ヤバっ」と言って、こっそり席を立ち、何処かへ行こうとしている。
「マ、リ、リ、ン」
ビクッとしたマリリンが立ち止まった。
「アンタ、またやってくれたわね」
なるほど、さっきまでが嘘のような、怒りに満ちた表情をマリリンに向けている。手元にはほとんど空っぽになった、ポテトチップスの袋。
「ちゃ…ちゃんと少し残してるやん」
「小さいのが5枚残ってるだけじゃない」
富豪の親子のやり取りとは思えない言葉を互いに発しながら、マリリンが逃げ、真里亜さんが追いかける。が、すぐにマリリンが捕まり耳やら頬っぺたをつねられ引っ張られている。その顔が可笑しくて、僕は思わず笑ってしまった。
「ちょっと兄ちゃん、何笑てんねん。助けてぇな」
笑ったことを申し訳なく思い、フォローに入る。
「ま、まぁ、ポテトチップスならまたすぐ買えますし…」
言った瞬間、間違いを悟った。真里亜さんが鋭い目線を僕に向けている。
「アナタね、ポテチを笑う者はポテチに泣くのよ!覚えておきなさい!」
ポテトチップスのことで笑ったり泣いたりすることは、おそらく生涯訪れないと思うが、ここはもう謝るしかない。
「はい、覚えておきます!」
そう言った僕の顔を見て、真里亜さんは冷静さを取り戻していった。
「ごめんなさい、アタシったら」
この急な切り替わりもある意味怖い。しかししょっちゅうこんな怒られ方しているのに、懲りずに繰り返すマリリンも、ある意味凄い。学習能力が無いだけかも知れないけれど。

その後も佐野さんが入れてくれた生クリーム入りのセイロンティーを飲みながら(マリリンと真里亜さんはコンビニのいちごオレ)、いろいろな話をした。マリリンが僕に多くのきっかけをくれていることも。
「この子がねぇ。でも、そうね。何がきっかけになるかはわからないものね。でもね、きっかけを、ちゃんときっかけに出来るかどうかは、結局本人次第なのよ。だから、アナタが上手く行ってるとしたら、それはアナタ自身の力だと思うわ」
ドヤ顔のマリリンの頭を撫でながら、真里亜さんが言った。気がつけば、動悸は収まっていた。壁掛けの時計は午後3時を指している。
「そろそろ東京に帰る準備しなきゃね」
真里亜さんがそう言った。
「そうですね。僕も一度実家に戻ってから東京に帰ろうと思います」

3人に挨拶をしてドアを開けると、既に木村さんが僕を待ってくれていた。
「お車を用意してありますので」
そう言って、車の待っている場所まで案内された。待っていたのは、いつものロールスロイスと白髪の運転手。60歳は過ぎているだろうが、姿勢が良く肌に張りがあって、年齢を感じさせない。
「石野です。ご自宅までお送りしますのでお乗り下さい」
石野さんが開けてくれたドアから乗り込んだ。以前にも一度乗せてもらったけれど、相変わらず新車のように隅々まで清掃が行き届いている。赤いレザーシートは、なんだか僕には落ち着かないな。

車に乗って10分も掛からずに実家に着いた。ちょうど母が帰って来たところだったようで、実家の前に停まったロールスロイスから降りた僕を見て、宇宙人でも見たかのような顔をしている。
「あ…あんた、もうそんな車に乗れるくらいお金もらってるの」
驚くポイントが少しズレている気がする。同じ母親でも、いろいろな母親がいるなぁと、ふと思う。当たり前のことだし、深い意味は無いけれど。
「違うよ。知り合いに会ってたんだ。そしたら帰りの車を出してくれたんだよ」
ありのままを説明したつもりだったが、目の前に停まっている車がロールスロイスだから、どうしたって不自然だ。
「ま、まぁ、後で説明するよ」
石野さんは僕らに会釈をして、ホテルに戻って行った。

母に本当の話をするととんでもなく面倒な事になりそうな気がしたから、仕事の関係で真里亜さんと知り合ったのだと説明しておいた。今日も知人を介して同席しただけだと。
「すごいわね、あのマリア・シラサギの真里亜さんでしょう?アタシ大ファンなのよ。会いたかったわぁ」
母の反応を見て、改めて自分が置かれている環境の異常さを感じた。動悸はもう収まっているが、一瞬、鳥肌が立った。

少し母と話した後、父の帰りを待たずに荷物をまとめ、東京への帰路に就いた。

曇天の空からは、少しばかりだが明るさが感じられるようになっていた。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?