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眼鏡の向こう側 #シロクマ文芸部「珈琲と」


「珈琲と紅茶、どちらが宜しいですか」
目の前に座る淑女に尋ねられた。
「珈琲が良いな。あ、砂糖もミルクもいらないよ」
緊張を隠しつつ、そう返す。

ケンちゃんに「相談に乗ってやってほしい」と頼まれ来てみれば、そこはこっちと無縁な大豪邸だ。引き返そうかと思いもしたが、頼みを断るなんざ男じゃねぇやと思い留まり、呼び鈴を鳴らした。

出て来たのはこれまたこっちたぁ縁遠い、眩いばかりの美人な奥さんで、なんだかペースが狂っちまう。

「はい、珈琲とスコーンです。召し上がって下さい」
スコーンなんざ食ったこともないが、見た感じは、要するにパンだろ。
「お、こいつはうめぇな」
絶妙な甘さ加減と食感が良いね。
「あら、嬉しいわ。アタシが作ったんですよ」
「本当かい、こいつは店を出せるんじゃあないか。珈琲との相性も抜群だしよ、金払っても良いぐらいだぜ」
「そんなに喜んで頂けたなら、後でお土産分も包みますね。それでご用件なんですけど…」
「おう、何でも言ってくれよ」
「飼い猫がいなくなってしまったの。かれこれ1週間帰って来なくて、心配でたまらないのよ」
「なるほど、そいつを探せば良いのかい」
「お願い出来るかしら。いなくなる少し前から食欲も無くて…」
「おうよ、お安い御用だ。そいでその飼い猫はどんな風体なんだい」

…そんな成り行きで猫探しを引き受けた。品種はペルシャ猫だと言ってたが、あんなのが彷徨いてたらそれだけで目立つったらねぇけどな。

とりあえずはだ、甘くなった口に塩気が欲しくなっちまった。返しそびれたチャリンコ飛ばして、商店街の肉屋へ向かう。

「よう大将、今日のメンチは格別に美味いねぇ」
揚げたてのメンチを齧ると、口の中が幸せでいっぱいになった。
「お、わかるかい。今日はいつもより上等なランクの肉の余りを使ってんだ」
いや、そんな違いはわかりゃしねぇがな。
「ところで大将、この辺でペルシャ猫見なかったかい」と聞くと「ペルシャもギリシャも行ったことねぇからわかんねぇなー」と大将ガハハと笑う。話になりゃしない。
「でもよ、猫だって家出したくなる時もあるんじゃねぇか。俺も母ちゃんにどやされた後は大体アキちゃんとこ行くぜ」
そう言ってまた豪快に笑った。
「猫には猫の事情があるってことかい」
「ま、そういうこった」
土産用にコロッケ2つ買って店を出た。

それにしても猫の事情たぁ一体何なんだい。皆目見当つかねぇや。ちょっと猫のこと調べてみるかね。

調べものをするにはやはり図書館だ。

「自転車」
こっちの顔を見るなり、受付の黒縁眼鏡の兄ちゃんが言った。三文字。
「なんでい藪から棒に。ちゃんと返そうと思って来たんじゃねぇか」
すっかり忘れたけどな。
「ところで兄ちゃん、猫が何考えてるか知りてぇんだ。どの本がおすすめだい」
「あっち」
相変わらずこっちを見ずに指差しやがる。三文字。

言われた棚に行くと、猫の事典があった。早速調べてみるか。

ネコ)は、狭義には食肉目ネコ科ネコ属に分類されるリビアヤマネコヨーロッパヤマネコ)が家畜化されたイエネコ(家猫、Felis silvestris catus)に対する通称である。
世界のイエネコ計979匹をサンプルとしたミトコンドリアDNAの解析結果により、イエネコの祖先は約13万1000年前(更新世末期〈アレレード期英語版)〉)に中東砂漠などに生息していた亜種リビアヤマネコであることが判明し…

うーむ、そんなことが知りたいんじゃあねーよ。

機嫌が悪くなるのは天変地異の前兆…、病気を隠したりもするらしい。何にせよ、猫の意思でどっか行っちまったんだろうな。

「兄ちゃんよ、どっかでペルシャ猫見なかったかい」
黒縁眼鏡の兄ちゃんにも念の為聞いてみた。
「いるよ」
三文字。ん?
「いる?いるってのはどういこった。どこにいるんだい」
「ウチ」
ん?ん?
「ウチ?」
「ウチ」
…普通にしゃべってくんねぇかな。
「ウロウロしてたから餌あげたら、そのまま住み着いた」
なんでいちゃんとしゃべれんじゃねぇか。こっちは見ちゃいねぇが。
「あのな、その猫探してる人がいるんだ。返してやってくんねーかな」
「猫次第」
今度は鋭い眼光でこっちを見て言った。三文字。しかし猫次第と来たか。まぁしゃーねぇ。

図書館の閉館を待ち、兄ちゃんが運転するチャリンコの後ろに乗ってペルシャ猫の元へ。

たどり着いたのは、ボロボロの二階建て木造アパート。ここで一人暮らしをしてるらしい。階段を上がって一番奥が兄ちゃんの部屋だった。四畳半の部屋に小さなキッチン、畳の上にはたくさんの本が積み上げられていた。その片隅に、全く不似合いなペルシャ猫が寝転んでいる。

「ネコ」兄ちゃんが呼ぶと「ニャーン」と猫が鳴きながら足元にまとわりつく。すっかり馴染んじまってるらしい。しかしネコはねぇだろ。
「ようネコちゃん、飼い主がアンタ探してんだよ。一緒に帰ろうぜ」
こっちが呼び掛けると、ネコは元の場所に戻ってまた寝転んだ。
「なんでいなんでい、素っ気ねぇな。こりゃ完全に居ついちまってんな」

「ネコ」と兄ちゃんが呼び、キャットフードを皿に入れると勢いよく飛んで来て、ガツガツと食い始めた。ん?食欲無かったんじゃなかったか?
「兄ちゃんよ、コイツ食欲始めからあったかい」
「魚あげたらすごい食べた」
なるほどそういうことかい。って普通にしゃべったな兄ちゃん。
「なぁ、本当に飼い主の元に帰っても良いかい」
「猫次第」
…。三文字。

兄ちゃんに電話を借りて飼い主に連絡をすると、慌てて飛んで来た。ボロいアパートに美しき淑女。そうそう見れない状況だな。
「メルちゃん」奥さんが呼び掛けると、猫が「ニャーン」と鳴いた。飼い主だとわかっていようだ。
「奥さんよう、このネコちゃんにどんな餌やってんだい」
「アタシが食べるのと同じような物、スコーンでしたり、カステラとか…」
「そんなのネコは好きじゃない」
兄ちゃん珍しく語気を強めて言い放った。
「あぁ、それでいそれでい。この子は魚とかキャットフードが食いてえって、それで家出したんだよ」
「そうだったんですね。アタシてっきり喜んで食べていると思っていました。飼い主失格ですね。ごめんね、メルちゃん」
奥さんの頬に涙が流れている。それを見たネコちゃんムクっと起き上がり、奥さんの足に首を擦り付け「ニャアッ」とひと鳴きした。
「許すて」
兄ちゃんが言った。「て」が気になるし、猫語がわかるのも気になるが、どうやらそういうことらしい。
「ありがとうございます」と奥さんが言い、「大丈夫」と兄ちゃんが言った。なんだか泣いてるように見えら。
「なんでい兄ちゃん泣いてんのかい」
肩に腕を回す。
「帰れ」
…。

まぁまぁ、丸く収まって、無事一件落着ってこった。

夜風に吹かれながら、カゴにネコちゃん後ろに奥さん乗せて、奥さんちまで全力でチャリンコを走らせる。

奥さんちで飲んだ珈琲と、背中で感じる香水の香りがやけに印象的な一日だった。

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