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rivise 〜マスター タケルの場合〜【短編小説・後編】

※前編未読の方はこちらからどうぞ。

※後編も12,000字あります...

家に帰れば逃れることの出来ない現実がある。心が折れそうな時もあったが、それでも碧は前を向いて歩むことを選んだ。

大学は両親と同じ早稲田大学に進学した。文学部に入り、哲学や心理学を学びたかった。同時に、少しでも春子と洋輔を喜ばせたいという気持ちもあった。二人が共に早大を卒業していたからだ。実際合格発表の日に電話で報告をした後、碧が帰宅すると、合格を喜んだ洋輔が部屋を飾り付け、ケーキを買って帰りを待ち侘びていた。碧はそれを喜ぶ一方で、なかなか症状の改善されない母を見て、昔からこういう家庭だったら鬱にならなくて済んだのだろうかと、どうしても負の想像が過ってしまう。

最悪の時が訪れたのは、それから僅か三ヶ月後、入学して間もない4月の終わりのことだった。

講義中に碧のスマホが鳴った。液晶に表示された名前が洋輔だったから、嫌な予感がした。余程じゃない限り、こんな時間に電話を掛けてくることはない。教室から飛び出して、電話に出た。スマホを耳に当て、「もしもし、父さん、何かあった?」と碧が問い掛けると、既に泣き声の洋輔が「すまん、今病院に来てる。母さんが意識不明の状態なんだ。もしかしたら、ダメかも知れないって。碧、すぐ来れるか」と言った。「すぐ行く」とだけ伝えて、碧は急いで病院に向かった。

碧が病院に着いた時、春子は既に息を引き取った後だった。
「どうして…」
項垂れ、泣いている碧に、洋輔が話し始めた。
「抗うつ薬の過量服薬が原因だそうだ。薬は父さんが管理してたんだが、目を離している間に飲んじまった。たぶん、ずっと考えてたのかもな。部屋に戻ったらもう、気を失って倒れてた。薬をもっとわからない場所に隠しておけば、こんなことにならなかったかも知れない。俺がもっと早く気がつけば、助かったかも知れない。全部俺のせいだ。すまない…本当にすまない。俺は、最低な夫で、最低な父親だ」
下を向いて、泣きながら絞り出すように話す洋輔に、碧はやはり、春子がこうなってしまったきっかけが自分であると打ち明けることは出来なかった。今の洋輔の心に、これ以上の負担を掛けることなど出来るはずがない。自分がさえいなければ…、そう考えると、疼くはずのない胸の傷痕を、無性に掻きむしりたい衝動に駆られた。
「父さんは悪くない。何も悪くない。だから、そんなに自分を責めないでくれよ」
碧にはそれぐらいしか、言葉にすることが出来なかった。

親戚の協力もあり、葬儀は粛々と行われた。春子側の親戚には、洋輔に心無い言葉を掛ける者もあったが、洋輔はただ頭を下げ、詫びるだけだった。碧は何も知らないくせにと憤りを感じたが、洋輔の手前、それを言葉にすることはしなかった。本心では、ぶん殴ってやりたいぐらいだった。しかし、何より事情を知る春子の両親であり、碧にとっての祖父母からの「洋輔さん、ありがとうな」という言葉に、二人は救われた。最期に見た春子の顔は、とても穏やかだった。子供の頃からずっと見て来た、優しい母の顔だった。

葬儀を全て終えた夜、洋輔と碧はこれからのことを話し合った。
「父さんな、来月から仕事に復帰することにした。休んでる理由も無くなっちまったしな」
碧は「うん」とだけ答えた。
「碧、お前には辛い思いばかりさせて、本当に申し訳ないと思ってる。これからでも、父親として、俺に出来ることはさせてくれ」
「父さん、父さんは十分頑張ってくれてるよ。だから大丈夫。俺は大丈夫だから、いつも通りに、また仕事頑張ってよ」
「あぁ。ありがとな。碧は…、父さんはわかってるから、やりたいことをやれ。お前にはやるべきことが、きっとあるはずだ。お前じゃなきゃ、出来ないことが。それがどんな選択でも、俺は応援するから」
洋輔の言葉に込められた意味が、碧には理解出来た。全部わかっていたのだと、その上で全て受け止めていてくれたのだと知った碧は、流れる涙を止めることが出来なかった。
「ありがとう」
碧は心から父の存在を誇り、感謝した。そしてその夜、洋輔が眠りについたのを確認した碧は、最低限の荷物だけを持って、家を出た。

しばらくの間はインターネットカフェを転々としながら生活し、そこから大学にもちゃんと通った。その間に新田に相談した結果、新田の一人暮らしの友人の家に居候させてもらえることになった。

バイト先も紹介してくれた。新田の先輩が店長を務めるバーで、バーテンダーをやらせてもらえることになった。バーの名は『PAZ』。スペイン語で「安らぎ」という意味だ。勿論未成年の内は飲酒は御法度だが、それはそれ。最初は店の手伝いをしながらリキュールの勉強をして、それから少しずつバーテンダーのイロハを教えてもらって行った。

店長の羽村祐樹(ハムラ ユウキ)は新田から事情を聞いていたこともあり、親身になって仕事を教えてくれた。簡単な調理やシェイカーの振り方、業者の対応から経費の仕組み等の経営的な面まで。一番学んだのは、どうすればお客さんがまた店に来たいと思うか。大切なのはもてなしの心と、その客が何を求めて店に来ているのかを読み解くこと。心理学的な側面も絡めながら、指導というよりは雑談をするように教えてくれる。 

オールバックの髪や綺麗に整えた髭、清潔感のある服装などの一つ一つから美学を感じさせる羽村は、20代とはまるで思えない落ち着きを感じさせた。ある時「俺も傷物だから」と普段と変わらぬトーンで羽村が言ったが、碧からそれ以上聞くことはしなかった。具体的な話を知らなくても、どことなく、近しい何かを感じていたからだ。

昼間は学校に通い、夜はバーでアルバイト。週末も予定が無ければ派遣バイトの仕事を入れた。父とはあの日から連絡を絶っていたが、碧の口座には毎月15万円が振り込まれていた。父としての、無言の応援ということなのだろう。

『PAZ』は日中はカフェ、夕方以降はバーとして営業している。店内の中心にバーカウンターがある作りで、客席は20席。常に全体が見えるようにという、羽村のこだわりの造りだ。常連客も多く、碧も声を掛けられることが増え、だんだんと店に馴染んで行った。新田の友人も来るから、碧の知らない内に、常連客の間ではゲイであることが認知されていた。

碧の持つ影のある雰囲気と、低音の優しい声色は客にも評判が良かった。そして、働くようになって半年が経過した辺りから、不思議なことが起こり始めた。碧に声を掛け、自身の悩みを相談する客が出てきたのだ。始めは主に女性から、普通の恋愛相談だったり、同性愛の悩みを聞いたり。碧はほとんど聞き役で、時折二言三言、感じたことを伝える程度だった。悩みが解決されたわけでは無いのに、話し終えた後、客は何か荷物を降ろしたようなスッキリした表情になっていて、碧に感謝を伝えた。しばらくすると、碧より年上の男性からも、同じように恋愛の話や仕事の悩み、碧と同じ同性の恋愛の話も聞くようになっていた。時には何処で噂を聞いたのか、中高生が悩みの相談をしに店に来たこともあった。「それは君の才能だよ」と羽村からは言われた。「君ってさ、他人の痛みを吸収するような…、なんて言うんだろ、教会で懺悔するみたいなさ。ちょっと違うかも知れないけど、君に話すことで救われるような感じがするんだよ。勿論、その時限りの幻かも知れないけど、それって俺らみたいな傷物には、すごい大事な時間じゃん。傷だらけで生きて来た人間が傷舐め合って、何が悪いんだって思うんだ」最後に少しだけ強まった語気に、羽村の心の内に触れたような気がした。

碧自身に自覚は無いが、新田と初めてセックスをした時に、碧の胸の傷痕を見た新田が「この傷痕が、お前の強さだったり、優しさの素なんだろうな」と言ったのを、ふと思い出した。それと何か関係があるのも知れないと感じた瞬間に、“自分がやるべきこと、自分じゃなきゃ出来ないこと”が、碧の頭の中で、一気に具体的な映像として描かれた。

その日の営業終了後に、碧は羽村に自身の脳内に描いたビジョンを説明した。医療機関よりももっとハードルの低い、飲み食いしながら、雑談の延長線上で悩みを気軽に話せる空間。それを自分は作りたいのだと。これまでの人生の中で、これほど熱くなって人に話したことは無かった。話を全て聞き終えてから、「うん。それは君じゃなきゃ出来ないかもな。俺も出来る限り協力するよ」とニコリと笑って羽村は言った。

大学は出た方が良いと羽村に言われた。碧自身も心理学は学び続けたいと思っていたから、そのつもりでいた。それ以外の時間は変わらずアルバイトを続け、資格を取る為にバーテンダーの勉強もした。洋輔が振り込んでくれているお金には、どうしても必要な時以外は手をつけずに、全て貯金した。

そうして大学卒業までの間に、200万円以上の貯金を作った。しかしたかだか200万では開店費用には十分では無いし、それ以前に安定した収入も無い大学を卒業したばかりの碧には、自分の名義で場所を借りることすら出来ない。だからと言って、ここで足踏みしているわけにはいかない。そう考えた碧は、羽村に相談を持ち掛けた。
「協力して頂けないでしょうか」
碧なりに準備はした。見込みの集客や客単価から売上を出し、経費を引いて残る利益から返済計画を立て、それらを表にまとめた資料を羽村に見せた。
「良いよ」
羽村はあっさりと承諾の返事をした。
「但し、俺が支援したいのは、こんな机上の数字を信じたからじゃない。この間の、お前の熱い想いを感じたからだ。もしお前からそれが感じられなくなったら、そん時は、俺は手を引くぞ」
碧は真剣な顔で頷いた。
「もう一つ。俺もさすがにキャッシュでポンっと金を出す程は余裕が無い」
それは碧もわかっていた。
「はい。お金はいろいろな人を当たってかき集めます」
クラウドファンディングも考えていたが、それには時間の見込みが立たないし、不確実過ぎる。悩み抜いた結果、ひたすら知り合いに当たることが、一番現実的だと考えた。
「いや、ちょっと俺に考えがある。」
「考え、ですか?」
「あぁ。ウチの常連にジンさんっているだろ?」
ジンさんとは、ほとんど毎日のように『PAZ』に来る常連客だ。白髪のロングヘアを後ろで縛り、Schottのライダースジャケットがトレードマーク。名字が神(ジン)で、年齢はおそらく50代後半から60前後だが、ハッキリはわからない。わかるのは店の一番奥の席が定位置で、関西弁を話すことぐらい。実は碧は、神とはあまり話したことが無かった。
「俺、ジンさんとは挨拶ぐらいしか…、ほとんど話したことも無いですし、あまり好かれてないのかと思ってたんですけど」
「違う。お前、まだまだだな。ウチの店でジンさんと話すのは、俺と、限られた常連客だけだ。知らなかったのか」
何が違うのか、碧はピンと来ない。
「ジンさんはな、超が付くほどの、人見知りなんだ」
「はぁ」
「で、あの人もゲイだ」
「えっ」
「面食いだからな、お前みたいなイケメンが相手だと、余計に緊張して話せないんだよ」
「全然…、そんな感じしなかったです」
「まだ続きがある。ジンさんはな、投資家なんだ。あの人の悪い癖でな、話し相手が限られてる分、信頼した相手には何でも話すんだよ。麻布十番のタワマンにパートナーと住んでて、貯金は…、いや、そこまで言うのはやめよう」
碧もとても気になったが、自分から聞くわけにも行かない。
「まぁ、要するにだな、お前…、ジンさんに抱かれろ」
碧の目を見て、真剣な顔で羽村が言った。
「そんなの俺、絶対嫌ですよ!」
他に誰もいない店内に、碧の怒声が鳴り響いた。瞬発的に、珍しく声を荒げた。親身に相談に乗ってくれていると思っていた分、ショックが大きかったのだ。しかし、真剣な表情の碧と対照的に羽村は笑っている。
「可笑しくありませんよ」
「ごめんごめん、冗談だよ。まさかお前がそんなに怒ると思わなかった。お前、本当真面目だな」
そう言いながら、羽村はまだニヤついている。
「だから可笑しくないですって」
「いや、ジンさんな、お前のこと気に入ってんだよ。ジンさん、お前がウチに来てからずっと見てるだろ?頑張ってる姿、奥からずっと見てんだよ。変な意味じゃなくて、本当はお前と話したいらしいんだ。でもお前、モテモテだからな」
「そう…なんですか」
「あぁ。だからな、明日時間作ってやるから、ジンさんに話してみろ。俺に語った時みたいに熱い想い、ぶつけてみろ。結果はどうなるかわからん。投資家だからって、個人に投資するなんて、普段はしないだろうからな。でも、やってみる価値はあるんじゃねぇか」
「はい。俺もわからないですけど、ジンさんと話してみたいです。やりたいこと、伝えてみます」
「それでダメだったとしても、お前のことだから諦めやしないだろ?俺も手伝うからさ。良い機会だから、やってみようぜ。俺もなんか…、楽しみだ」

そして翌日、羽村の計らいで、客が増え始める前に、神と話す時間を作ってもらった。

17時の夜営業を始めると、間もなく神が訪れた。カウンターの羽村さんに目配せをし、会釈をしながら店の奥に向かう。席に腰掛けたジンさんに、羽村がオーダーを聞いた後、話をしている。神が小さく頷くと、羽村は碧を呼んだ。
「話、聞いてもらえるそうだ」
「はい、ありがとうございます」
二人のやり取りを、神は他人事のように見ている。
「お話、聞いて頂けますか」
席の所まで来た碧がそう言うと、「えぇよ」と小さな声で神が返事をした。

碧は自分の生い立ちから順を追って話し、自身がゲイであることや母親の鬱病、そして自殺したことについても隠さず話した。それから現状を説明し、自分がどんな理由でどういう店をやりたいのか、そのビジョンを語った。内容が後半になるにつれ、碧の話しは熱を帯びて行き、気がつけば1時間が経過していた。その間、神は「へぇ」とか「ふぅん」とか、気の抜けた軽い相槌を打つ程度だった。自分の想いが届いているのかと、不安になるくらいに薄い反応だ。

全て話し終えた碧は、最後に「ご協力お願い出来ないでしょうか」とジンさんの目をしっかりと見て言った。対して神は視線を逸らし、俯き加減で「で、なんで僕が金出さなあかんの?」と碧に問い掛けた。あまりに冷淡な反応に、碧は言葉に詰まってしまった。
「僕、関係あらへんやん。なんで僕が、見ず知らずの君に融資する理由があんのん?」
「理由、ですか」
「そうや。君の考えてることはわかったけども、お店失敗したらお金返って来ぉへんやん。君の情熱がいつまで続くかもわからへん。そやから、何の理由も無しに僕にお金出せって、筋が通らへんで」
返しようの無い言葉と、初めて饒舌に話す神に対し、碧は戸惑った。だが、碧もここで引き下がるわけにはいかない。
「理由…ありません。ジンさんじゃなきゃいけない理由は無いんです。正直に言うと、お金さえ借りられれば、誰でも良いんです。」
神は黙って碧の話を聞いている。
「でも、これは自分じゃないと出来ないし、自分がやらなきゃいけないんだって思ってるんです。ジンさんだって、若い頃、傷ついたり悩んでた時期あるんじゃないですか?今もそういう人が、世の中にはたくさんいます。そういう人を、一人でも救いたいんです。俺みたいな人間を増やしたくない。だから…、身勝手なのはわかってるんです。仰る通り、成功する確証があるわけではありません。でも、俺にチャンスを頂けませんか。お金は何をしてでも、必ず返します。何年掛かっても、必ず返します。だから、お願いします」
碧は体を折り曲げ、頭を下げた。神はその姿を見て、表情を少し緩めて言った。
「あるやん」
「えっ」
「理由、あるやん。若い頃の僕のこと、救ってくれるんやろ?それだけで十分や」
「本当ですか」
「今なんか全然恵まれてる方やと思うで。僕は施設育ちでな、その頃は同性愛者は完全に病気扱いやったもん。その頃から二丁目はゲイバーあったよ。でもな、そこに行くのもごっつ勇気のいることやった。何かで秀でてたらまだええねんけど、そうじゃなきゃ一般人のゲイは、やっぱりただの爪弾きやねん。バレた瞬間にな、罵られて、仕事クビになるねん。何もしてないのに気持ち悪がられて、いきなり殴られんねん。碧くん、これ見てみ」
そう言って、神は自分の左手首を見せた。そこには大きな、リストカットの痕があった。
「大学卒業する頃にな、就職せなあかんねんけど、バレたらどうなるかって考えたら、もう絶望しかないねや。前向きになんてなれるわけあれへん。それまでにももう心ん中傷だらけやったから、もう死のう思てな、手首切ったんや。でもな、死にたいわけやないねん。全然生きたいねん。血ぃみたらめっちゃ怖なって、救急車呼んで、ほんで助けてもらったんや」
碧は神の目を真っ直ぐに見て、話に聞き入っていた。
「そん時に世話になった救急隊の兄ちゃんがな、『死ぬ覚悟があるならなんでも出来るやろ』言うてん。そんな簡単に言うなや思たけど、でも、ほんまにそやなって。こんな怖い思いするぐらいなら、なんでも出来るんちゃうかな思てな。それで死ぬのやめたんや」
バーボンウィスキーを一気に煽り、神の話は続く。
「ちょっとだけやけど、君と似てるとこあるやろ」
チラッと碧の方を、神が見て笑った。
「そんでもな、やっぱり普通に人と関わるのは怖くて、極力人と関わらない仕事探して、限られた範囲やけど二丁目で人脈作りながら、パソコンの勉強して、株やって先物取引やって…、結果として金持ちにはなれた。でもな、金がある所には汚い連中も集まるんや。だから結局人が一番怖ぁて、今も最低限の、信頼出来ると思った人間としか、仲良ぉせんのよ」
自分なんかより、よほど辛い思いをして今があるのだと、碧は感じていた。
「だからさ、その店作ってほしいねん。碧くんの店作ってな、あの頃の僕、救ってやってほしいねん」
碧は無言で頷いた。
「これだけ喋らせといて、途中で投げ出したらほんまにあかんで。これで踏み倒されたら、それこそ人間不信になるわ。信用してええねんな、碧くん」
神の目が、心なしか潤んでいるように見えた。
「はい、絶対裏切りません」
「ほなら、無担保無利子で、必要な分だけ貸したるわ。金の面倒は、僕が全部見たる」
嬉しそうに言った神に、碧は深々と頭を下げて、「ありがとうございます」と言った。

「終わった?」
カウンターから羽村の声が飛んで来た。時計は既に、8時を回っている。
「あのね、碧くん。君のことを待ってるお客さん、他にもいるんだからさ。知ってる?俺、今日ずっとワンオペよ?さすがにちょっと疲れちゃったよ」
羽村がおどけた調子で言うと、店内にいた客たちの笑い声が響いた。その光景を見た碧は改めて、自分は恵まれていると感じたのだった。

そこからは、羽村や神、新田とその仲間の協力もあり、オープンに向けた準備はトントン拍子で進んで行った。

以前から決めていたことがあった。オープンを機に、新しい名前を持つことだ。名も既に考えていた。『タケル』。日本の神話に登場する、どんなピンチも機転を利かせて切り抜ける英雄、日本武尊(倭建命、ヤマトタケルノミコト)。その強さに、昔から憧れを抱いていた。武尊という、その字面も格好良くて、覚悟を持つ意味でもこれしかないと、心に決めていた。

店名は大いに悩んだ。店名を決めないと発注出来ない物も有り、ギリギリまで悩んでやっと決めた店名、それが『rivise』だった。reviseには修正や改訂、見直しといった意味がある。自分達のような悩みを抱えた人間には、それまでの生き方に修正が必要だ。本来のスペルはreviseだが、意図的に二文字目のeをiに変えた。「愛(i)のある修正の場所」、それが『rivise』という店名に、タケルが込めた想いだった。

オープンしてしばらくは客足も安定せず、順風満帆とは行かなかった。そんな状況でもタケルは来てくれる一人一人の客を大切に扱い、徐々に常連客を増やして行った。新田は仲間を連れて来てくれたし、神さんも時折顔を出してくれた(羽村に申し訳ないと言って、変わらずほぼ毎日『PAZ』にいた)。高校時代の恩師である西川が来てくれたのも嬉しかった。オープンする際に感謝の手紙を送っていたのだ。成長し、生き生きしているタケルの姿を見て、西川は心から喜んだ。

オープンから2年が過ぎた頃には、平日でも席が埋まる日が多くなっていた。タケルを慕って来る常連客の口コミや、SNSを介して噂が広がり、タケルに悩みを相談しに来る者や、同じように悩みを持つ者同士の憩いの場として店は賑わった。

出会いが有れば、別れも有る。高校時代からパートナーとして支えてくれた新田とは、別々の道を歩むことになった。レコード会社主催のコンテストで賞を獲ったのをきっかけに、新田のバンドがレコード会社に所属することになり、イベントやフェスに出演する為に移動も増えた。新田の「しばらく音楽に専念したい」という気持ちを尊重する形で、関係を解消した。別れはやはり辛かったが、その悲しみを和らげてくれるのもまた、新田が教えてくれた音楽だった。

あの日聴いたザ・ブルーハーツの『リンダ リンダ』が忘れられず、CDを買って、気分が落ちている時は必ずと言って良いほど聴いた。特にその歌詞が大好きで、自分の想いを投影させた。

“もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら そんな時はどうか愛の意味を知って下さい”

それは正に、タケルが『rivise』をオープンさせたビジョンそのものだった。

そして、オープンから3年が経過したある日、運命的な出会いをタケルはすることになる。

『rivise』は日々多くの客で賑わい、タケルと話したり、その空間にいることで「救われた」と言ってくれる者も少しずつ増えている。それは嬉しい。しかしながら、限られた空間の、限られた世界の話だ。タケルのビジョンはもっと大きくて、悩める人々が自然でいられる空間を、もっと広げて行きたかった。

「同じ学校に光(ヒカル)ってゲイの子がいるんですけど、このお店紹介したので、その内来ると思います。必ず来ると思います」
そう話してくれたのは、堀田という高校生のゲイの男の子だ。

堀田はSNSで『rivise』を知ったらしく、高校に入学したばかりの頃から、昼営業の時間帯に時折訪れた。小柄で肌は浅黒く、強めの天然パーマに黒縁メガネという特徴的なルックスの堀田は、自身がゲイであることに悩んでいるということではなく、「ここに来たら仲間いそうだし、出会いあるかと思って」というフラットな子だった。「悩んだこととか無いの?」というタケルの質問にも「僕はそもそも女の子にモテませんからね。それに、運動出来たんでイジメられることも無かったですし、子供って良くも悪くも単純ですよ」とあっけらかんと話す。タケルは、こんな子もいるのだなぁと感心させられた。

それからしばらく期間が空いて、光は店を訪れた。営業前の午前中、誰か来そうな予感がしていたタケルは、事務作業がてら普段より早めに店に来ていた。聞こえてきたのは遠慮がちなノックの音。「はーい」と返事をして、ドアを開けるとそこに立っていたのは、緩いパーマの掛かった金髪と滑らかな白い肌の、美しいとしか形容しようのない男の子だった。しかしどこか陰がある。「光君でしょ?」とタケルが声を掛けると、光は頷いた。

店の中に招き入れ、光の話を聞いた。それはあまりに壮絶で、悲しい物語だった。

光の話を聞き終えたタケルは、頭を撫で、ハグし、キスをした。そして光をソファ席に腰掛けさせ、服を脱ぎ捨てて、自分の胸の傷痕を見せた。それからタケルは光の横に座り、今度は自身の生い立ちや、母の自殺、『rivise』をオープンするまでの話をした。話しているタケルも聞いている光も、目から涙が溢れ出していた。話が終わると今度は、光の方からタケルにキスをして来た。内心少し驚いていたタケルに対し、光は胸の傷痕にキスをして、そのまま愛撫を始めた。タケルもやがて、光のことを心も体も全てを受け入れた。それは互いにとって、間違いなく必要なことだったから。

不思議な感覚だった。それは快楽ではなく、慈しみ合う行為のように思えた。肉体的な交わりでありながら、互いの心根に触れるような、濃密な時間。光がタケルの中で射精し、行為を終えた。短い時間の中で、深く相手を理解し合った。タケルは、光なら自分の描いたビジョンを共有出来ると確信した。
「君は明日からここで働きな」
そうタケルが言い、翌日から光は『カイリ』と名を変え、『rivise』で働き始めた。

しばらくするとカイリ目当ての客も来るようになり、ますます『rivise』だけでは手狭になっていった。

羽村にも相談し、漠然とだが次の一歩を考え始めていた時、神さんがぶらっと『rivise』を訪れた。
「聞いてんで。えらい儲かってるらしいやん」
ニヤニヤしながら、神が言った。
「おかげさまで軌道に乗りました。そろそろお借りした開店資金が返せそうなので、羽村さんにも相談していたんです」
そう話しながら、今日神が来たのは、きっと羽村が話したからだろうと思った。
「嫌や」
「えっ?嫌って…」
「嫌やぁ、言うてんねん」
「どういう意味でしょうか」
「あの金はな、人質や。」
タケルにはまだ意味がわからない。
「碧君がな、あの金を僕に返して安心してもうたら、初心を忘れてしまうかも知れん。この店、儲かってんのやろ?ここが儲かってる言うことは、それだけ救われてる子が増えてるいうことや。そやろ?でもな、あの時碧君が聞かせてくれた話は、こんなちっぽけな話や無かったはずやな」
ようやく神の言わんとしていることがわかり始め、「はい」と言ってタケルは頷いた。
「だからな、あの金は初心を忘れない為の人質や。まぁ…、人質を君に預けてるのも、どないやねんいう話やけどな」
神は嬉しそうに笑っている。
「羽村君に聞いたで。次の店、考えてんのやろ?」
「はい。俺のビジョンを一緒に叶えて行ける子に巡り会えたんです。だからその子に、カイリにお店を一つ任せようと思ってます」
「そうか。ほなら、その開店資金に遣うんやな、人質の金。足りなかったら言うてや。僕も暗号通貨でまた儲かったんや。そろそろ全部売ったろかなとも思てるけどな」
「ありがとうございます。実はもう、物件の目星も付けていて、ある程度計画が固まってからカイリと神さんにも話そうって、羽村さんとは話してたんです。でも羽村さん、先に言っちゃったんですね」
わざと不満げな顔を作ってタケルが言った。
「そないわざとらしい顔せんといてぇや。羽村君も悪気は無いねんから、まぁええやんか。それよりもな、碧君。そのカイリ君やら僕なんかより、伝えなあかん人がおるんちゃうか?真っ先に伝えなあかん人が。人間は過去を置き去りにして、先に進むことは出来へんねんで」
神が何を言っているのか、今度はタケルにも、直ぐにわかった。
「決めるのは君次第や。老婆心いうやつやな。僕の場合はジジイやけどな、ゲイのな」
そう言って笑った神の顔は、子供のように邪気の無い笑顔だった。神が今日訪れた本当の目的は、このことを伝える為だったのではないかとタケルは感じていた。勿論それは、神のみぞ知るところだったが。

「ありがとな。連絡くれて」
神と話したその週末、タケルは洋輔と共に、母の眠る霊園を訪れていた。
「ずっと連絡しなくてごめん」
タケルは率直に詫びた。
「あの時は…、父さんまでいなくなったらどうしようって、考えれば考えるほど怖くなって…俺、結局目の前の現実から逃げたんだ。本当のことを話す勇気が無かったんだ」
タケルの目からは、既に涙が溢れていた。
「それはもう言いっこ無しだ。父さんも怖かった。お前が壊れちまうのが怖かった。お前まで、どっか行っちまうような気がしてな。だから、一緒だ」
洋輔もやはり泣いていた。
「お前が出て行った日、警察に届け出るべきかどうか、本当に迷ったよ。でもな、碧が考えた上で決めたことなんだって自分に言い聞かせて、それからは、連絡が来るのをずっと待ってた。でも、一向に連絡は来ないし心配で仕方なくてな、一回だけ、公衆電話から掛けたんだ。そしたらつながったから、少し安心した。勿論、出る前に切ったぞ」
最後は暗い雰囲気を紛らすように、冗談めかして洋輔が言い、ふっと笑った。
「お前からじゃないと意味がないと思ってな。碧が自分で決めて連絡して来ないと、ダメな気がしたんだ。そうじゃないと、碧が前に進めないって。だから、連絡くれて嬉しかった。碧も俺も、これでやっと前に進める」

だからこそ、待ち合わせの場所が母の眠る霊園で、二人で来ないといけなかったのだと洋輔は言った。二人で挨拶してからじゃないと、前に進めないのだと。止まっていた時間を、進める為に。

「なぁ、碧。一つお願いがあるんだ」
「何、かしこまって」
「あのさ、父さん今度、碧の店に遊びに行っても良いかな。前から興味あったんだ、新宿二丁目」
「良いけど、ウチ、オネエはいないよ」
「え、そうなのか?あのテレビで観てるような、ああいう感じじゃないのか?」
「俺、ああいう感じじゃないでしょ?父さんの偏見から変えて行かないと、日本を変えるなんてとてもじゃないけど無理そうだね」
「そうだな。すまん」
洋輔はいつも通りに、申し訳なさそうに謝った。オネエにも、ちょっと失礼だ。
「普通だよ。それぞれに個性はあるけど、それって普通のことでしょ?みんな普通の良い人ばかりだから、今度一回確かめに来てよ」
タケルは嬉しそうに言ったけれど、その目から、止まっていた涙がまた溢れ出た。こんな風に父を誘える日が来るとは思っていなかったから、どうしようもなく嬉しくて、涙が止まらなかったのだ。「そんなに泣くな」と言って頭を撫でた父に、改めてタケルは言った。

「みんな、普通だよ。」


おしまい

★シリーズ1作目★

★シリーズ2作目★

★アリエルさんの『カイリの物語』漫画ver.も最高です!!★


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