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犬猿の仲

 腐った性格の持ち主でした。というのも、僕の中学、高校時代というのは決して性格が良いとはいえず、むしろ嫌な奴だったと思う。(あるいは今もそうなのかもしれない。)

 特に人間関係においては、好きか嫌いかの両極端だった。友人として好きな部類の人たちには、思いやりのある言葉はかけていたかもしれないが、嫌いな人に対してはとことんヘイトした。どれくらいかというと、超音波加湿器から出る蒸気くらい凄まじい勢いで愚痴をこぼしていた日々だった。

 世界に70億人もいれば、嫌いな人は存在するに決まっている。しかし、僕は人間を好きか嫌いかの二択で判断していたから、嫌いな人が他人に比べて多かったと思う。

 人間、自分のことを嫌いと判断した人を嫌う「返報性の原理」なのか、僕が嫌った人間はことごとく僕のことをも嫌った。同時に、僕は嫌われたらソイツを嫌い返した。つまり、そのようなプロセスを経て「犬猿の仲」というものが誕生したのである。

 それも、中学にも高校にも犬猿の仲の人間がそれぞれに存在したのだ。思い出せるだけでも中学のときに2人、高校でも2人いた。

 中学のときの犬猿の仲だった野郎の一人は(野郎なんて言ったら失礼なのだけれども)、もともと幼稚園児のときから知り合いで仲はそこそこ良かったのに、気づいたらなぜかお互いを嫌い合う存在になっていた。原因を追求しても思い出せやしない。

 高校の犬猿の仲の野郎も同様、お互いを嫌い合うようになった経緯がいまいち思い出せない。僕はすごく馬鹿だったから、「野郎がお前の陰口を教室で叩いてるぞ」と友達が電話で教えてくれたときは、その教室に乗り込んで真正面から口論した。自分から乗り込むのだけれども、何故か感情的になって涙目で口喧嘩するというなんとも弱々しい高校生だった。

 中学も高校も上記で述べたように、おそらく僕が相手を嫌ったから、相手に嫌われたという返報性の原理に基づいて、犬猿の仲が誕生したのだろう。事の発端なんかどうでもよくなって、お互いを貶し合うことが日課になってしまう。嫌い、いがみ合うことがもはや義務になってくる。赤信号を見て立ち止まるのと同じように、嫌いな奴を見たら悪口を言わなくてはならないのであった。

 今思えば本当にクソガキである。犬は猿を見てワンワンと吠え、猿は犬を見てキーキー泣き喚く。そんな学生時代を送りました。

 僕の家には犬とインコがいるのだけれども、犬は猿を見たときみたいに、インコを見てワンワンと泣き威嚇するのだ。しかしインコは犬のことなんか全く気にしていない状況である。犬のことなんかそっぽむいて、高いところへと飛んでいく。その後もインコは犬に威嚇したり、喧嘩を売るようなアクションを起こさない。

 人間関係というのはギター初心者がFコードをマスターするくらい難しいものだけれども、(それ以上かもしれない) 僕はインコのような大人の人間になりたい。威嚇されても冷静で、喧嘩は売らない。そんなインコみたいな人間に。

 あれ、でもそういえば僕はよくインコに威嚇されるし、喧嘩を売ったらめちゃめちゃ噛み付いてくるんだったわ。

 どうやら僕は、誰にでも寛容的なインコにも嫌われやすい体質を持っているのかもしれない。これはある意味において才能である。



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