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わかよたれそつねならむ 2015年そして




 居酒屋に勤めだして一年とちょっとになった。十月になってもう寒い日がある。今日はヨガ教室に行ってきた。先生の指導の声を聞きながら組んだことのないポーズに身体を、動かし息を吐いたり吸ったり止めたり、力を入れたり抜いたり、休むことなく身体を意識し続けた。力を抜いて背骨を伸ばし、リラックスする、これはどういうことか。背骨をまっすぐに伸ばした状態でもう身体は緊張している、筋肉がピクピクするのがわかる。だんだん前のめりになってくる。屍体のポーズで解放した時は床に吸い付かれるような気がした。
帰宅したら全身が重くてくたくたとなった。 月日

二年過ぎて居酒屋にまた、戻ってきた。転勤になった最初の店から市内の有名ビルにある、和食の店に三ヶ月いた。そこの料理長と働くのが嫌になって会社を辞めた。
 夏の盛りの蒸し暑い日、次の仕事に見つけた食品会社の製品開発、企画課のポジションに応募したら面接したいということで出かけて行った。そこは大阪のコリアンタウンと呼ばれるところだった。キムチの製造工場が本社ビルの韓国料理チェーン店や韓国食材の製造販売の会社だった。一回目のあと料理の実技を社長に試食されて、三回目の面談で製品開発、企画の仕事はないと告げられて、代わりにフレンチレストランのチェーン展開に挑戦しないかと言われた。もちろん、面白いやってみたいと告げて、会社での研修が始まった。研修はサムギョプサル専門店での調理や焼肉店の店長見習いで調理と皿洗い、そして合間にそれぞれの業態の新メニューとレシピ作りに毎日を過ごした。やっぱり居酒屋と同じような長時間労働だった。フレンチレストラン開業の話はいっこうに聞くこともなく、貰う約束だった給料はなんだかんだと値引きされ来月こそはと聞かされたその次の給料も約束の金額はなく、辞めた。また仕事を探して、結局、日給の居酒屋働きに戻った。




 梅田駅で地下鉄を乗り継ぐと、その電車は淀川を渡る橋の手前で地上に出て、川を渡ると高架に乗っかりイーストリヴァーを渡るFトレインみたいになる。ジュディがブルックリンからシティへと使うGトレインのようでもある。ぼくの頭の中が五月になる。



 全く。どういうことかね。居酒屋で世話になっていた料理長が辞めて、新しい人が来た。料理長になるのは初めてらしい。四十代後半、オーストラリアに8年いたらしい。最初に会った時に向こうから話した。なんだかんだとその体験を聞かされる。魚の英語名は全部知ってるらしい。



 料理長が代わってからなんだかんだと仕事が増えて、昼の散歩が急ぎ足になった。
日本料理とはこういうもので、お前のやってることは間違っている。そうじゃなくて、
こうだ、ということをよく言われた。まあ、気に入らないというのは分かる。日本じゃ職場の中で年上だというと敬語も使わないといけないし、年取った奴にはそれなりの配慮も必要らしいからね。アメリカの英語は女王陛下由来のオーストラリア英語と違ってゲス野郎の話す言葉だし、それはトランプが大統領になって証明された事実でもあると、自信に満ちた口調でおっしゃるのだ。



 ちょっと聞き飽きてきた料理長の自慢話。両手いっぱいに広げた大きさの釣り上げた魚、釣竿の本数、その値段。釣り上げた日本の女、オーストラリアの女、その獲物の若さと容姿の魅力。ふむ、魚も女も腕を磨けば釣り上げられるらしい。ああそうですかの声を調整するのに神経を使う。おれみたいなのをゲス野郎というのさ。                        



 ずいぶん昔、日本料理の職場は階層システムががっちりしていて料理長のことは親っさんと呼ばないといけないし、先輩は兄さん、若い衆は見習いの間は坊んと呼ばれた。高級とされる旅館、料理屋、割烹から居酒屋、飯屋でもそのシステムは一緒で親っさん、本人が居ないところでは親父とよばれる男が調理場内では絶大な権力を持って部下の頭上に君臨していた。大概の場合は人事権を持っていたし、取引業者と裏取引なんかやっていて、自分の賭博や女にかかる費用を稼いでたりした。業界の常識みたいなとこもあった。
 50年近く経って今はもうそんな調理場内のヒエラルキーやバックマージンの慣習も無くなってきたけれど、料理長としての義務、自分の子飼いの男が仕事に困らないように、いつでも有力な口利きが出来るように飲食業界で関係を維持し続けることなどからも開放された。残っているのは先輩や料理長への言葉遣いや食事の上げ下げみたいな下らないことが多い。



 調理場は4人、洗い場は夜だけ1人いてランチは調理場の手の空いただれかがやる。前の料理長は自分の仕事をやりながらいつでも山のような食器を洗って片付けていった。
新しい料理長は洗い物はしない。ぼくがきれいに乾いた食器を持って料理長の使う棚に戻しに行くと苦い表情でもっと大事なことをやってくださいと言う。いやぼくは宴会の料理は出したし、一品料理はいまは通ってこないのでいまのうちに溜まった器を洗ってみんなが使えるように配っているのだと、言いたい気持ちはぐっとこらえて、すいませんという。調理場が忙しくなると機嫌が悪くなるひとなんでこんなに多いのかね。ニコチン切れだけかね。




 いやもう、辞めることにした。前の料理長には、ほんと、お世話になった。和食は専門違いでなんとか揚げ物だけこなせる自分をよく使ってもらった。





 中央駅、グランドビル地下にあるワインとビールのレストランに就職が決まった。
就職活動を始めて十日、市内で開催された飲食業専門のジョブフェアで案内のあった店の一つで面接を受けた何軒かの内で一番熱心に誘ってくれた店だった。この時のジョブフェアではスタンプラリーといって参加者には抽選券をもらってくじを引く特典があり、ぼくは三回まわしてそのうちの一つに一等を引き当てた。五万円の食事付き温泉宿泊券だった。ほとんど全国どこの温泉でも行ける宿泊券で持って帰ったら妻は大いに喜んだ。


















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