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フィルモア通信 New York No 25 カレン・ヒューバート、ジャクリーン・ケネディ・オナシス夫人の赤いスーツ。


 カレンは文才があり、自分のレストランのマダムとして昼夜ダイニングルームを取り仕切りながら自分の本の執筆にも忙しかった。ぼくが早めのランチシフトでキッチンに入る頃に、犬のラルフと彼女は散歩から帰って来た。
 ラルフがいつも決まった所で立ち止まりくんくんやって用を足すのが彼のニュースペーパーを読むことなのだとカレンは教えてくれた。

 そうか、ニュースペーパーだったのかとぼくはかねがねニューヨークの路上や地下鉄やスーパーのそこかしこでひと達は立ち話をする、別に知り合いでも無いらしいのに言葉を交わすアメリカ人に感心していた。
 べつにひと懐っこいとか気安いとかでなく習慣としてひとと話すのは、あれはニュースペーパーを読むようにひとと情報を交換しているのだと合点がいった。
 

 だんだん英語が聞き取れるようになってきたぼくに新聞を読むように勧めたのもカレンだった。そしてこれを読みなさいと手渡してくれたのはダシール・ハメットの The Thin Man だった。初めて手に取る英語の初めて最後まで読み通した本だった。カレンとレン夫妻はアメリカ文学に詳しかった。
 

 ヒューバーツのウェイターたちのなかにはぼくにアメリカンコミックスやスティブン・キングの本を進める人もいたが、それを聞くとレンは首を振りマサミにはもっとしっかりした文体の本がいい、と言うのでハメットやシャーウッド・アンダーソン、そしてブロツキーやヘミングウェーを読むようにと言った。ぼくはハメットとアンダーソンに夢中になった。梶井基次郎に夢中になった時みたいに読んだ。

 ろくに英語も話せず、高校もなんとか卒業した知識しかないぼくにレンとカレンは辛抱強くアメリカ社会の問題やジェンダー、そしてエイズについての話をしてくれた。サッコとベンゼッティの話も彼らから聞いた。
 

 ある日のランチタイムに出勤したぼくに着替えるまえにダイニングルームにジャッキーが来ているとカレンは声をかけた。混み合うランチの窓際のテーブルにジャクリーン・ケネディ・オナシス元大統領夫人はいた。真っ赤なスーツを着こなしサングラスを著けていたがその品のある横顔には見覚えがあった。

 オナシス夫人はヒューバーツ・レストランの常連らしかった。パークアヴェニューのこのすぐ近くにフェミニズムを扱う出版社がありジャッキーはそこの顧問みたいなことをやっていてたまにヒューバーツでランチを摂るということだった。
 

 その日のレンはいつもの汚れの無いシェフコートにぼくがプレゼントしたしぼりの日本手ぬぐいをスカーフ代わりに襟に著け、なかなかかっこよかった。 
 レンとカレンは仲が良く手際の良くないレンがオーダーに手こずり、カレンがお客に文句を言われるようなことがあっても文句は言わなかった。
 

 日系三世だか四世のジョアンは知性がその日本美人と言いたい容姿に現れている品のあるまだ若いサービスクルーで、ダイニングルームで客をおしゃべりでもてなすカレンを支え、二人で休みの日にはニューヨークタイムスで紹介された話題のスシ・レストランにでかけたりしていた。

 ジョアンは日本語をぜんぜん話せなかったが僕の言うことは理解してくれた。ジョアンのおばあちゃんは日本語だけ話してジョアンに戦争で日系アメリカ人の家族みんなが強制収容所に送られたことなど話し聞かせていたらしい。当時の日系人がいかに大変な目に会ったかはぼくはマツナガ上院議員からも聞いていた。
 

 ジョアンがぼくとなんとかコミニケーションを持とうとする姿勢から言葉は話すことより聞く能力のほうが大事なんだと気がついた。相手の言うことが理解できなければ何も話すことはなかった。喋れるだけの言葉が役にたつのは買い物だけだった。何年か経って自分が物を売るには相手の話を理解できなければ物は売ることもできないとわかった。
 

 ジョアンとカレンは仲が良かったが、レンはジョアンを好きで無いらしく、料理のオーダーをキッチンに伝えたり客の注文をレンに伝える時の態度が気に入らなかったらしい。ぼくにはなんのことかわからなかった。
 ジョアンはぼくに優しかったし、なんといっても彼女は美人だった。ありがとう、おやすみ、げんき、だいじょうぶ、など言ってくれるのはうれしかった。

 ジョアンがレンの叱責を受けてサービスの途中にダイニングルームから出て行きそのまま帰ってしまった忙しい週末の夜、カレンはキッチンに入ってきて言い合いになった。レンの大事なその夜の客が混み合うオーダーに充分なサービスをしているかとジョアンに何度も聞いたりしたのでジョアンも苛立ちなにかレンに言い返したらしい、レンは怒りを言葉に出して、とかになった。

 ジョアンはその場でレストランを立ち去りそのあとのキッチンでのふたりだった。だんだん声が大きくなるカレンに冷静を取り戻してレンは、あとで話そうとカレンに告げ、カレンはダイニングルームの立て込む満席のテーブルへと戻った。


次の日カレンはランチもディナーにも現れなかった。二人が住むアパートメントから朝早くカレンは出て行ったとレンはぼくらに話した。その日は一日中意気消沈したレンの仕事をサポートした。

この稿つづく


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