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フィルモア通信 月日の余白を

2021年、ミキオさんの訃報を聞いたのは十一月の半ばだった。四十年前の同じ季節にぼくは彼に出会った。ニューヨークに着いてふた月目、ぼくは仕事を探してイーストヴィレッジからソーホーに歩いてゆきトンプソンストリートに小さな日本食レストランの看板を見つけた。

お店のメニュー掲示板の前に真っ白なシャツを着た若い男がいてそれがミキオさんだった。一言二言を交わしぼくはお店の中に招き入れられた。
そこはぼくの住んでいた京都に本店があるうどん屋さんのニューヨーク支店だった。ソーホーに開店して二年目のそのお店は京都の本店には無いメニューを出す日本食レストランだった。ミキオさんは京都の高校を卒業すると絵の勉強をするためにイギリスに渡りアートの世界ならやはりニューヨークへと拠点を移して数年後のレストランビジネスへの挑戦だった。

ミキオさんは飲食業の経験は無かった。家業の料理屋で育った環境の経験と
自分の美的価値観を店の細部に現したような作りのレストラン経営だった。
そのころの日本食レストランには珍しく店のメニューに寿司がなかった。
寿司はそのころのニューヨークで美食や健康を志向する金持ちたちに人気の出始めた日本食だった。しかしミキオさんは自分の店に寿司のメニューを置くことを拒んだ。その理由はよくわからなかった。人の真似はしたくないと
ぼくに言った。開店した年は赤字だったらしい。寿司の無いアーティスティックでオーセンティックなジャパニーズレストランにくるアメリカ人は限られていた。近所に住む金持ちのギャラリーオーナーや成功した芸術家たちが
物珍しげにやって来るだけだったらしい。

ソーホーのその建物はベースメントのある三階建て、ベースメントと一階がレストランに使われ二階三階はアパートメントでビルのオーナーは三階に住んでいた。ソーホーにある現存するビルとしては最も古く少なくとも百七十年は経っているというニューヨーク市の見立てらしかった。
イタリア系のそのビルのオーナーは自身で永らくそこでイタリアンカフェを
営んでいた。子供たちは跡を継がないので引退して店を人に貸しに出したところでミキオさんの熱望にあって日本料理屋にすること受け入れた。

ミキオさんのレストランがオープンして数ヶ月客足のない苦境をみかねたのかビルのオーナーはミキオさんに今月から商売がうまく回るまで家賃は半分でいい、儲かるようになったら全額にするからと告げ、その代わり俺がお前の店で食事したらタダにしろと言った。彼がミキオさんの店で食事することは無かったが。

そしてある日、ニューヨークタイムスのフードコラム担当のジャーナリスト
であるミミ-シェラトン女史がミキオさんのレストランの料理と店のアーティスティックな雰囲気を褒める記事をその新聞に載せた。
店は忙しくなり経営は軌道に乗った。
ミキオさんも従業員も若かった。ぼくはミキオさんと同い年だった。
同じ京都でそれぞれ異う男子校に通っていた。ぼくは高校を出て日本料理の修業に入りミキオさんはアートの道を進みそして十年経ってぼくたちはニューヨークで出会ったのだった。

ミキオさんの訃報は大阪で聞いた。日本に戻って二十年が経っていた。
ぼくは自分の店を北新地で十年経営して店をたたみ雇われる身となって
料理屋で働いた。料理長になったりしたが自分の店ほど誇りを持って料理することは出来なかった。素材の吟味や質はコストパフォーマンスとかいう
言葉が支配した。

パンデミックが世界を支配し続けるその年ミキオさんの訃報とともに
ニューヨークのお店の残されたミキオさんの姉である経営者からニューヨークに来て店を手伝ってくれないかと電話があった。
ぼくの妻は満面の笑みを浮かべ、ともに大学生の息子と娘は行ってらっしゃいとぼくを送り出した。

2022年の春ぼくはソーホーのミキオさんのレストランに着いた。
ミキオさんのお姉さんや開店当初から働いている料理長とは三十年ぶりかの再会だった。それぞれの人生の月日の歩みと変わらぬ声や眼差しに驚いた。
もっと驚いたのは店の中はダイニングルームもキッチンも変わらずにそこに
あったことだった。ニューヨークで四十年以上商売をしているレストランというのは稀有な存在でそれが同じ経営者で店の作りも雰囲気も厨房の設備も同じで稼働し続けている。それは歴史博物館のようだった。

レストランに着いた次の日から厨房に入った。忙しかった。
ニューヨークの街はパンデミックの長く暗い闇夜から目覚めつつあった。


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