見出し画像

私が愛する三大歌姫たち(2)〜ちあきなおみを想う日々〜

有言実行となってしまった。

忙しさにかまけて、気づけば前の記事の更新から3週間ほどが経ってしまった。このまま放置してしまうところだった。

前回の記事では私が美空ひばりに惚れ込んだ経緯を書いたが、今回は私の愛する三大歌姫の二人、ちあきなおみについて触れようと思う。

ちあきなおみの名前を聞いたことのある人はどれぐらいいるだろうか。
ここ最近、「美空ひばりに勝るとも劣らぬ歌姫」として再評価が高まっている彼女。1969年(昭和44年)に「雨に濡れた慕情」で日本コロムビアからデビューし、1972年(昭和47年)には「喝采」で第14回日本レコード大賞を受賞。「喝采」は今でも歌い継がれる名曲となっている。
その後、ビクター、テイチクとレコード会社を移籍しつつ、独自のスタイルを確立した彼女だが、1992年(平成3年)に最愛の夫を亡くして以降、活動を休止し、それ以降表舞台には戻ってきてない。
ファンのみならず復帰を求める声は多いが、彼女は依然沈黙を守っている。

美空ひばり同様、私がこの世に生を受けた時にはちあきは既に活動を休止していた。
ちあきなおみという歌手を知る術は、ファンの生の声やテレビで不定期に組まれる特集からの情報でしかない。
そんな私がいかにしてちあきなおみの虜になったか。

その前に私の音楽の嗜好についざっくり説明しようと思う。
私の好きな音楽というのは一言で言えば「暗い」歌。根が暗いせいもあってか、明るい盛り上がるような歌よりは、スナックやバーなどでひとり酒を呑みながら聴くようなそんな歌が好きだ。—そんな私だから、くくりとしては「若者」の部類に入る人間なのに、流行りの音楽などにはてんで疎い。むしろ昭和歌謡を好む大人との会話が弾む。

そんな趣味嗜好だから、ちあきなおみの唄が入ってくるのに時間は掛からなかった。
私が初めて聴いたちあきの唄は「喝采」だった。スタンダード中のスタンダードだったが、それでも昭和歌謡マニア「初級」の私には、初めて聴いた「喝采」は新鮮だった。

本格的にちあきの虜になったのは、彼女が最後に公の前で歌った「喝采」の映像を観てからだったか。NHKの「愉快にオンステージ」という番組での歌唱だった。出てきた時から、彼女は異彩を放っていた。この頃に最愛の夫を亡くしていたので彼女のショックと悲しみは計り知れないものだったと推察する。それを念頭においても、あの時のちあきは「美しかった」。
何か憑物がとれたかのように「喝采」を唄っていた。 
しばし心を奪われながら、彼女の歌唱を聴いていた。

そこからどっぷりと沼にはまり、彼女の歌を聴きあさった。
ストリーミングにはないので、CDを買い漁った。
あの時の私は病的なほどに、ちあきなおみを追い求めていた気がする。

ちあきなおみの凄さは「女優魂」であると思っている。
一時期歌手活動をセーブしていた頃に女優活動もやっていた彼女は本質的に「演じる」ということが得意だったのだろう。
「歌」というのは一種のドラマのようなもので、歌の主人公にどれだけ成り切れるかが重要だ。いくら「技術」がうまくても「感情」が十分に入り込んでいなければ、聴き手の心にささらない。
そういう意味で「暗い歌」というのは、歌手の力量が試されるリトマス試験紙と言っても過言ではない。いかに主人公の心を読み取ってそれを自分なりに表現するのか。
つまり「演技力」が試されるのだ。しかも声だけで。

ちあきなおみの歌唱はその私の期待を遥かに超えていた。
彼女に暗い歌を歌わせたら、天下一品だと思っている。事実、彼女もインタビューで「ポルトガルのファドのような、暗くてやりきれない歌が好きだ」と語っている。                     美空ひばりも「悲しい歌の方が好きだ」と語っていたが、ひばりは悲しい歌を唄ってもあまり暗くならないように工夫して唄っている
歌の主人公の心情を的確に表現しながらも、技術的には軽めに、重たくならずに聴き手にも心地よい歌唱に仕上げていて、そこはひばりの強みだと思っている。

だが、ちあきなおみは違った。
彼女は暗い歌を歌い出すと、あっという間に悲しみの渦に聴き手をいともたやすく誘い込んでしまうのだ。そしてその悲しみの渦は暗く、深く、容易には抜け出すことができない。
そしてちあき自身も、半ば病的に歌の世界へと自身も潜り込ませる。彼女の奥深くに眠っている狂気のようなものが、ちらりと姿を見せるのだ。「霧笛」(ポルトガル民謡・ファドのカバー)や「夜へ急ぐ人」などにその狂気を垣間見ることができる。

私は悲しい歌を聴きたくなるとき、ひばりとちあきの歌を主に聴くのだがその時々の気分によって二人の歌を聴き分けている。
ひばりの歌を聴くときは、悲しい気分でいてもどこか立ち直れそうな予感を感じたとき、希望が欲しいときだ。
対してちあきの歌を聴くときは、どうにもやりきれなくて、誰の励ましもいらない、ただ一人で酒でも呑んで酔い潰れながら悲しみに浸っていたいと、自分の中で区別を付けている。

さらにちあきなおみのいいところはカバー曲だ。
歌の上手い人ほど、他人の曲を自分流にアレンジするのが上手いが、ちあきなおみは歌を「料理する」ことに関してはピカイチだ。
いい編曲家と出会えたのも、彼女の強みだ。
倉田信雄や服部隆之、筒美京平など錚々たるメンツがちあきといいコラボレーションを産み出している。
彼らが新たにアレンジ直した往年の名曲に、ちあきのボーカルが新たな生命を吹き込み、一つの作品として完成させる。ちあきのカバーはさながら熟成したワインのように深みがあり、味わい深い。
個人的にお勧めするカバー曲は「こぼれ花」「二人の世界」「泣きはしないさ」(石原裕次郎)、「夜霧のブルース」(ディック・ミネ)、「東京の花売娘」(岡晴夫)、「星影の小径」(小畑実)、「赤と黒のブルース」(鶴田浩二)、「黒い花びら」「黄昏のビギン」(水原弘)、「ラ・ボエーム」「愛のために死す」(シャルル・アズナブール)、「霧笛」(ファド)、「それぞれのテーブル」(ダリダ)ーー見返すと、ビクターやテイチク時代のものしかないが、どれも彼女の円熟味増した歌声が堪能できるものばかりをチョイスしてみた。
このご時世、一度聴いてみては如何だろう。

以上が、私がちあきなおみを愛する理由である。
ちあきなおみが表舞台を去ってから、はや28年の歳月が流れた。一ファンである私としては是非とも彼女の歌声を一度でいいから生で聴いてみたいという思いはある、だが彼女はもう歌に未練はないのだろう。
亡きご主人への愛が深いからこそ、亡った悲しみは28年という歳月では癒しきれないのかもしれない。

彼女の意志を尊重し、今はただ彼女の息災を祈るばかりだ。

ちあきなおみを想う日々は続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?