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唯一無二という幻想~『彼女来来』感想

「怖い」という感情には2種類あると思う。

一つは「“知っている”から怖い」で、もう一つは「“知らない”から怖い」だ。

前者の代表例を挙げるなら「子供からみた親の叱責」や「苦手な人にとっての高所」など、割と想像のつきやすいものが思い浮かぶ一方で、後者は逆に想像のつかないものが該当する。

例を挙げるならいわゆるホラー系のコンテンツ類が代表的だが、それら「想像のつかない恐怖」の原点にして頂点といえば間違いなく「死」だろう。

そしてこの「死」に類するもの、自分を「死」に引き寄せる危険のある不穏な要素が近づいた時、人間は自己防衛のセンサーとして「恐怖」を強く感じるものと思う。

映画『彼女来来』を観て驚いたのは、ありふれた日常に並立するあり得ない現象に感じる恐怖が、本編が進むにつれ上記の後者から前者、すなわち「未知の恐怖」から「既知の恐怖」へと徐々に変わっていった点だ。

この点、序盤で感じた違和感が非人間的なものに思えたのに対し、話が進むにつれその正体が実はとても人間的なものであることが少しずつ見えてくる展開の不気味さと、同時に起こる耽美な感傷との揺り返しに、得も言われぬ想いがした。

ともかく一言に「面白い」というだけでは絶対的に言葉が足りないのだが、鑑賞後に残る強烈な余韻や、無意識のうちに問い掛けのナイフを額に突き付けられる鋭利な訴求性は他に類を見ないもので、個人的には機会が合えばぜひ観て欲しい作品の一つだったことは間違いない。

ここからは物語のラストに関わる致命的なネタバレを避けながら雑感を書いていくが、まだ本作を観ていない人に対して言えば、できるだけ前情報なしのフラットな状態で本作を観ることをオススメするので、以降の文章についてはご自身のタイミングで読んでいただければありがたい。

『彼女来来』本編感想

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「ある日彼女が別人になった」

たった一つのその異変を軸に展開するこの映画の中で、そのあり得ない非日常を包含しながら進む穏やかな日常の歪さや不気味さは簡単に忘れられそうにない。

そもそも僕自身、最初に予告編を見てこの設定を知ったときは「カフカの『変身』を人間でやった的なことかな?」と推測したのだが、実際に観た後の印象はかなり違っていた。

というのも、ある日突然に虫になった青年グレーゴル・ザムザを描く『変身』は、人の生涯に付きまとう苦楽を人間の“ガワ“だけを失ったザムザの感情を通して滑稽かつ露悪的に表現したものと個人的には思っているのだけど、本作における「変身」は少し様子が違っていて、ある日突然主人公の同棲していた彼女の『茉莉』が、同名ながら全く別人の『マリ』に変わるところに端を発する。

なお「茉莉」と「マリ」は同名ながら確実に別人(※)として存在し、だからこそ突如消えた『茉莉』の行方を追いつつ、逆に突然現れた正体不明の『マリ』に翻弄される主人公・紀夫の苦悩も深まり続ける。

(※詳しくは後述するが、脚本を書かれた山西監督ご自身がトークショーにてそう仰っていた。)

キャスティング会社の敏腕社員として活躍する紀夫は、毎日のように限られた役を奪い合う俳優・女優のオーディション業務に従事する。

そんな紀夫に「紀夫の彼女のマリ」という現実の存在がまるでフィクションの中の一つの役柄のような、代替可能な枠でしかないという事を少しずつ認めさせていく展開は一見残酷に写ったが、人の本質的な弱さや、孤独に喘ぐ現代の空気感を鋭く写し取っているようにも見えた。

昨今、よく言えば「最大公約数的な良コンテンツ」、悪く言えば「思考停止の感情ジャンクフード」として重宝されるショート・ショート然とした感動話や美談の中では、「絶えず続いていく尊さ」が無条件に崇められる傾向があるが、「病める時も健やかなる時もコースでおk?」とさんざん神父に確認されて誓った永久の愛だって役所に出した一枚の紙っぺらで全部無かった事になるし、終身雇用神話が崩れた今となっては、かつて寝ずに考えた志望動機も転職先が決まった頃にはとっくに忘れているのが世の常である。

ただ、そうした常に変わり続ける世界を生きながら、他人から見た自分だけは「替えの効かない存在」であって欲しいと願ってしまうのも人間の性である。

本作はそんな人の気質を深く抉るように、「この変わり続ける世界の中で、感動話や美談に出てくる『かけがえのない存在』や『特別な人』という要素は、実は全て綺麗事の幻想なのではないか?」という鋭い懐疑を受け手に投げかける。

個人的には、人は社会の中で与えられた「自分」という役割を担っているだけで、絶対的にその人でなければ回らないというポジションは見渡す限りそう多くないと思うのだけど、そうした冷たい法則が及ばない聖域に見える恋愛関係においてさえ、その実「生活の維持」や「承認欲求の交換」といった目的を達成するための一つの機構や契約や利害関係でしかなく、条件さえ満たせばその枠に収まるのは誰でも良いのではないか?という渇いた問いを差し向けながら映画は唐突に終わる。

昨日まで当たり前にあった好意がある日急に無くなることに、予告も前兆も理由もないし、当事者がそれを受け入れようが受け入れまいが、世界は何事もなく進み続ける。

振られた彼女を引きずる同僚も、一瞬言い寄ってきたがすぐ違う男と付き合って転職していった女性社員も、本屋の店員も、悪徳商法のターゲットも、絶えず変わり続ける世界の一要素に過ぎない。

きっと人は不確かな希望を一人変わらず信じ続けられるほど強くはないのだろうし、逆にその弱さがあればこそ未来に進める場合もあると考えれば、それは一概に悲観すべき事実でもないのだと思う。

かつて川に向かって独り言をいい続ける老人と仲睦まじく歩くカップルの狭間で、「未来の自分はどちらの姿でありたいか」と葛藤した紀夫が、終盤にすれ違った女性をあっけなく見送った際の力ない視線が忘れられない。


P.S.

僕が本作を観にいった6/27(日)の回は、監督・脚本の山西竜也さんとゲストのバイク川崎バイクさんの上映後トークショーが行われ、作品に込めた監督の真意などが語られた。

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(ちなみに監督は創作活動にシフトする以前にピン芸人として活動していた時期があったそうで、当時同じライブに出ていたご縁で今回バイク川崎バイクさんの登壇が実現したらしい。)

なお、おそらく同様の内容は監督の正式なインタビュー記事等で上がると思うので、以降の部分はあくまで聞きかじりの伝聞程度として話半分に読んでもらえればありがたい。

まず監督が言うには、本作のストーリーの着想は「彼女が出来る度に『君だけだよ』的なセリフを使い回しで言っている自分の都合の良さ」に気付いた所から得たとのこと。

そして、そんな都合の良さは自分個人のものではなく、割と人間全体に通ずる普遍的なものではないか?という違和感を感じたところからこの映画を作るに至った、という話があった。

ちなみにこの話を聞いたバイク川崎バイクさんも「たしかに俺も付き合う彼女全員に『オムライス作って』って言ってるなぁ」と同調し、会場の笑いを誘っていたw

また監督は本作を入れ替わり的なSFや「世にも奇妙~」的な文脈ではなく、あくまで一般的な「ある人と別れて⇒別の人と付き合って」という時間の経過を限界まで圧縮して見せたかった、とも仰っていた。

そのため、茉莉との別れにもマリとの接近にもこれといった前触れや理由はないという話を聞き、とかく意味や理由を求めたがる人間の習性の裏を完全にかかれた気がして、爽快なやられ感があった。

ちなみに茉莉役を演じた女優の奈緒さんは、事前に監督に対し茉莉の心情についてほとんど質問することなく、本番で監督の求める表情を一発で作って見せたという裏話が語られ、改めて(やっぱ役者さんって凄いな…)と感嘆のため息が漏れた。

そうしてトークショーはお二人の関係性が分かる和やかな空気で進行しつつ、作品のテーマについても興味深い内容が聞けてとても面白かった。

本作はこれから上映劇場も順次増えていくようなので、機会が合えばぜひ観てみて欲しい。







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