僕は君を抱けない

 僕は君を抱けません。不安が、恐怖が、違和感が、どうしても拭えないんです。

 もし君をこの腕で包み込んで、そうして万が一、君が妊娠したとしたら。知っているでしょう? 出産で亡くなる人の数を。怖いんです。君を失うことが。もし君が子を宿して、そうして産むと決断したら。君は死んでしまうかもしれない。

 くだらない、と鼻で笑う人もいるでしょう。事実、僕はある友人にばかにされました。だけど僕は思うんです。どうして否定できるんだろうって。そんなことは起こり得ないと、なんで断言できるんだろうって。現実に、命を落とす母親は存在しています。出産が母体に与える影響を考えたとき、僕は冷や汗が止まらなくなる。君に万が一のことがあったらと思うと、手汗が出るんです。息が浅くなるんです。眠れなくなるんです。行為の先に、君の死が待っているようで、おっかない。子どもができたとき、命を懸けるのは、女性である君だから。

 僕は君が好きです。そうして、君がいなければ生きていけない人間です。だから、そういうふうに思うんです。僕は君さえ丈夫で、健康で、そうしてぽかぽか笑っていれば、それでいいんです。子どもが嫌いなわけじゃない。僕は子どもも、大好きです。

 そして、大好きだからこそ、こうも思うんです。子どもを自分のところへ連れてきてもいいんだろうかって。この世は残酷です。生まれてくると、必ず病気になります。ケガもするし、歳も取ります。願いの大半は叶いません。一生労働することになります。お金のことで悩みます。人間関係に苛まれます。事件や事故に巻き込まれます。最後は死にます。苦しいといわずにはいられない。ここは、そういった場所なんです。そんな現実へ、子どもの手を引いて、そうして連れてきてもいいんだろうか。子どもを持つということを考えたとき、僕は躊躇せずにはいられません。父親になる。それは、あまりにもおどろおどろしいことなんじゃないか。許しがたい大罪なんじゃないか。子の意志とは関係なく、自分の気持ち一つで、快楽の果てに、その子に命を与える。資格はいらない。勉強さえしなくていい。親になることは、罪でしょうか。君の妊娠を考えたとき、こういった思考に呑まれるんです。

 もちろん、こんな世界にだって、美しいと感じられるものはたくさんあります。空の深さ、雲の大きさ、咲き誇る桜の花唇。透き通った水のやわらかさに、雨音の響き。夏がくれば虫の声が響き、冬になれば雪に目を包まれる。山の木々はうっとりするほど蒼いし、星や月はいつだって、時間を忘れるほど、きらついている。人の優しさや温もりに、美を感じることもあるでしょう。

 でもそれは、片側しか見ていないから。裏側を見ようとしないから。豪雨で亡くなる人がいます。虫は絶えずほかの生き物に喰われて、裂かれて、死んでいきます。山では動物が殺し合っていて。世界では水が足りていない。花にはアブラムシがはびこっている。暑さも寒さも、苦痛の種です。月影や星影は、僕らの生活を照らすには、淡すぎて。空にはなにもありません。人間はその笑顔で、他人を無自覚に傷つけています。気遣いや思いやり、優しさに触れてさえ、人は傷を負うんです。

 怖くはありませんか。そうして、苦しくなりませんか。親になった自分を、子どもが味わう苦痛を想像したとき、唇を噛みたくはなりませんか。指先が震えはしませんか。泣いて生まれてくる命です。泣いて育っていく命です。涙を流さないでいられるのは、生まれる前と、死んだあとだけです。

 そんなに妊娠が怖いなら、避妊すればいいじゃないか。一度、友人にそういわれたことがあります。でも、女の人である君なら、よく分かるでしょう? 避妊なんて完璧じゃないこと。ピルだって、重篤な副作用が出るかもしれない。そんなことはありえない。怖がりすぎだ。友人はそういって、けらけら笑っていました。僕は殴りたくなりました。その想像力のなさに。あまりにも雑な態度に。無責任な楽観視に。

 僕は君に苦しい思いをしてほしくありません。そうして、命に関わるような経験をさせたくもありません。これは僕のわがままです。まだ存在していない子どもに対しても、同じ思いを抱いています。生まれてこなければ苦痛はありません。生まれてきた僕らのように、幸せになる必要もないんです。

 出産は義務ではありません。子を作る能力があるからといって、子を作らなければいけないわけじゃない。機能があるからといって、それをその通りに使わなければならない理由はどこにもない。そう思ったりもするんです。

 僕をばかにした友人は、少子化のことを嘆いていて。戸惑いました。子どもを、社会を持続させるための道具として、彼は考えていたからです。高齢化のことも憂えていました。子どもを産まなかった老人を、誰が介護するんだろうなって。不気味に思いました。子どもを、世話させる道具のように、考えていたからです。そうして、彼のような考え方が、世間を支配していること。気持ち悪くてたまりません。そんな人たちによって、産み落とされる命。そんなにすばらしいでしょうか。生は無条件に祝福できるものでしょうか。僕には分かりません。はなはだ疑問です。

 僕の違和感を伝えたとき、例の友人はまゆをひそめていいました。お前はおかしいって。大丈夫かって。僕を狂人のように感じたんでしょう。それ以来、彼との関係性は薄まりました。いわゆる普通の人からすると、僕は狂っているようです。まともではないようです。人間として欠陥があるようです。

 そんな僕に対して、子どもはいいと、君が微笑んでくれたこと。それだけが、僕の救いです。

 僕にだって性欲はあります。あるけれど、やっぱり君を、抱くことができません。君と、それから子どものことが、好きだから。好きで、しかたないからです。

 君のように触れられる存在と、子どものように未だ触れることの敵わない存在を、同様に扱い、そうして好いていることは、そんなに変なことでしょうか。

 それも僕には、分かりません。

                               (了)

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