「演劇の現場でのハラスメントを考えるフォーラムシアター」に参加して
8月20日に東京で行われた、「演劇の現場でのハラスメントを考えるフォーラムシアター」(主催:一般社団法人 日本劇作家協会)。私は一観客として参加しました。
「鑑賞」ではなく「参加」と書いたのは、フォーラムシアター(=討論劇)が次のような観客参加型の演劇だからです。
フォーラムシアターをはじめ、ボアールの方法論をカナダ向けに翻案した参加型演劇を行うバンクーバーの劇団でインターンしたことがあり、今の日本だとどんな場が生まれるだろう?と、とても楽しみにしていました。
*インターンしていた劇団、Theatre for Living(旧Headlines Theatre)の公式サイト。
改めて、「公開の場で即興性の高いやり取りをする」のは、場を準備して運営する技術や演技力はもちろん、本当に大きな勇気が必要だなあ…と痛感。しかもハラスメントという切実なテーマに正面から粘り強く取り組んだ、進行役と演者の方々を心から尊敬します。
客席からの参加が次々と続いたのも嬉しかったです。さまざまな意見が交わされたり、舞台上で試されたりと、演劇を「使って」一緒に深く考える貴重な機会になっていたと思います。
フォーラムシアター進行上の原則と、現代のハラスメント予防/対応で大切にされている前提とのギャップが可視化された感はあり、その調整が今後の課題かなと感じました。
具体的には、フォーラムシアターで観客が舞台に上がり、登場人物に代わって「ここをこう変えたい」という提案を演じるとき(これを「介入」と呼びます)、代われるのは「『抑圧されている』と、その観客が感じた登場人物」、または「サポーター」(抑圧されている登場人物を応援できる人物)だけという原則があります。
もし「抑圧している側」に代われたら、一気に良い方向に話を持っていくことができ、フォーラムシアターの趣旨である「変えたい状況に対して、さまざまな角度から試行錯誤する」ことができなくなるためです。
(ただし、ボアールが始めて世界各地に広がった「被抑圧者の演劇」に取り組む人々の間には非常にオープンな雰囲気があり、ワークショップや上演の方法は、時代やその国の社会状況などに合わせてさまざまにアレンジされています。今回、私は一観客として参加しただけなので、こうした介入のルールがどう設定されていたかは把握できていないです)
一方で、上記の原則で進行しながらハラスメントをテーマとして扱うと「被抑圧者 = ハラスメントの被害者」という構図になりがちで、被害者役として「ここをこう変えたい」と演じたり、意見を出したりすることが二次加害につながる恐れはあり、それを避けるための具体的な手立てが必要なのだろうと思います。
今回は本編の前に、進行に関する説明やデモンストレーションなどもあり、安全な場を作ろうと主催者側が尽力されているのを感じました。
特に、観客が介入を始める前に、それまでに観たストーリーに影響されて硬くなってしまった心身を一度ほぐしましょうと呼びかけがあり、客席全員で軽くストレッチできたのはとてもありがたかったです。
ハラスメントなど非常にセンシティブな事柄を扱う際に、さらに心理的安全性を高めるためには、例えば次のような方法もあるのかなと思いました。
(これだけが正解というわけではなく、他にもさまざまな方法があり得ます。また、私が知らない/気づいていないだけで、主催者側がすでに取り組んでいたり、諸事情で実現が難しかったりしたことも含まれているかもしれません)
▽上記のような「観客介入のルールとその背景にある意図」を、フォーラムシアターを始める前に、より細かく観客と共有する
私が覚えている限りでは、今回は介入が始まる前に「観客はどの役に代われるか」の説明がなく(介入後には何度かありました)、観客の混乱につながった面もあったように見えました。
また、「現実のハラスメントで、被害者に対する『こうしたらよかった』という発言は二次加害となる」旨を、冒頭ではっきり説明することも重要ではと思います。
そのうえで、
今から展開する物語はあくまでフィクションで、複数の人たちの体験をもとに再構成・創作された架空のストーリーである
「個人の落ち度」を責めるのが目的ではなく、劇中で描かれる状況において「他にこういう方法もあり得るんじゃないか?」という選択肢を増やしたい。「同じ結末を迎えないよう、現状を少しでも変えるためには何ができるか?」を一緒に考えたい
…といった点も重ねて確認してから始められると、観客側のハラスメントに関する認識を揃えるために役立つのではないでしょうか。
▽作品の創作段階で、ハラスメント対策の専門家と協働する
もちろん、フィクションだから何をしても許されるわけではないので、「フォーラムシアターの環境下において、観客が演じる被抑圧者役の言動として、ここまではOK」、「これを超えたら、ハラスメント対策の観点からは許容できない」という一線はどこか? あるいは、そもそもそうした線引きが可能なのか?といった点を、作品の創作段階で、ハラスメント対策の専門家と話し合いながら精査するプロセスが組み込まれたら良いなと思いました。
(準備期間や予算の制約などの事情で難しいかもしれませんが…)
そのプロセスを経たうえで、「抑圧を受けている登場人物」に観客が代わるのはリスクが高すぎると判断したら、観客が代われるのは「サポーター」(抑圧されている登場人物を応援できる人物)や「傍観者」のみ、と設定するのもありかもしれません。
(「抑圧を受けている側も常に無力ではなく、状況を変え得る力を持っている」というのも、エンパワメントの観点からフォーラムシアターで重視されている部分なので、上記のような設定はどうしてもという時に限ったほうが良いとは思います)
▽「他の観客から出された介入や意見に対して、異論がある場合はどうするか?」も最初にルールを設定しておく
例えば「観客が他の観客に対して発言してもOK。ただし攻撃的にならず、相手へのリスペクトを持って」などの方針が具体的に示されたら、観客が違和感をおぼえた時も小出しに解消しやすくなりそうです。
なお、観客Aの介入によって変化したシーンに、さらに観客Bが「ストップ」と声を上げて介入…というように複数の観客が介入を重ねていき、その間、進行役は止めずに見守っているという展開も、カナダではよくありました。
▽観客が介入する際、口頭で意見を述べるのはできるだけ控え、実際に演じてもらう
今回は両方が可能でしたが、やはり口頭だと、どうしても頭で考えて「議論モード」に入り、登場人物に対する要求も高めになりがちだと感じました。
(コロナ対策や、参加のハードルを下げたいなどの事情との兼ね合いが実に悩ましいとは思います)
フォーラムシアターでは「どうしたら状況がより良くなるか」を探すのも大切ですが、同時に「どうしたらより悪くなってしまうか」を発見したり、実感したりすることも非常に重視されています。
ある介入によって事態が「悪く」なってきたら、前述のように他の観客がストップをかけることもできるし、進行役が「このまま進むと、次に何が起きるでしょう?」「問題は解決されると思いますか?」と観客に問いかけたりもします。
力の不均衡がある中で、強者ではない立場から状況を変える難しさ、ままならなさや、抑圧を受ける側の恐れや不安。そうした感覚をいくばくかでも観客が体感し、深い他者理解に至るには、「実際に身体を使って演じてみる」のが有効だろうと思います。
フォーラムシアターでは「誰がどう抑圧されているか」の解釈は観客に委ねられ、シーンによっても刻々と変わります。私が過去に海外で参加・見学した上演や創作過程のワークショップでも、ある観客が登場人物Aさんを「抑圧されている」と捉え、別の観客は全く違う解釈をしていた、といったことがよく起きました。
そうした多層性だったり、おおむね「抑圧者」として描かれる登場人物も単に「悪い人」というわけでもなく、「無自覚さ」が問題の根本にあったりなど、状況が複雑であるほど、「抑圧する側/される側」をすっぱり分けるのも難しいよなーと私もモヤモヤし続けています。
前述のカナダの劇団の演出家が、ボアールが使っていた「被抑圧者の演劇(Theatre of the Oppressed)」から「生きるための演劇(Theatre for Living)」に改称したのも、同様の逡巡があったのだろうと思います。
ともあれ、当日は私もいちど舞台に上がって自分の案を試したのですが、フォーラムシアターの介入では次の3つのバランスを取るのは至難の技だと改めて感じました。
ひとまずその場を「うまく」乗り切る
自分の気持ちに誠実であろうとする
本質的・構造的な問題解決につなげる
それでも、私の介入で舞台上での展開が停滞しかけたとき、舞台監督役(演劇祭全体をみている設定)の方に、(うろ覚えですが)「他の劇団でも、よくそういうことあるよ」と、一段大きな視点から事態の打開につながる言葉をかけてもらったのが心に沁みて、現実では自分がそういう言動を心がけたいと強く思いました。
溺れそうな瞬間にさっと投げてもらった浮き輪みたいなひと言のありがたみを、私はこの先もきっとずっと覚えています。それは、ほんの数分だけどあの場に実際に身を置いて、登場人物たちと直に関わったからこそ得られた感覚でした。
…と、こうしてあれこれ考えて書くことができたのも、あの貴重な場を創ってくださった関係者と観客のみなさんがいたからこそです。今後、ハラスメント対策や心理的なケアに専門性を持つ方々とも連携しながら、より安全な進行に向けた検討が進んだらいいなと願っています。
そして、フォーラムシアターは他の社会課題にも汎用性が高い手法だと思います。より幸せな社会を共に創るためのツールのひとつとして、さらに活用されていきますように。
長い文章を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
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