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森見登美彦的な創作プロセス 1

先日、小説家の森見登美彦氏の新作『四畳半タイムマシンブルース』が出版された。この本について少し調べたら、劇作家の上田誠氏の戯曲『サマータイムマシン・ブルース』が原案ということを知った。

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『マータイムマシン・ブルース』は2005年に映画化もされていたらしいので、早速みてみた。み始めると、昔どこかで見みたことがある映画だった。
当時の感想は、「なんだか不思議な映画だなあ」というくらいだったのだが、15年近くたってみても同じだった。ある地方都市の大学サークルの部室に、突如タイムマシンが出現する。当然、サークルのメンバーの間では衝撃が走るのだが、事件が外に広がることはなく、コミュニティ内で全てが完結する。当時は「もっと大事件に発展した方が、面白いのに」と思っていた。でもその点については今回は少し見方を変えた。芝居をみる心持ちでみると、事件が外に広がらないのも、仲間内で完結するドタバタも、スッと落ちてくるのである。

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恥ずかしながら演劇とか劇作家に疎く、最近まであまり興味もなかったため知る由もなかったが、上田誠氏が原案の映画では他に『曲がれ!スプーン』(2009年)も見たことがあった。これもタイトル通りSFものである。
上田氏については全く知らないと思っていたのだが、「そういえば昔森見登美彦のエッセイ集太陽と乙女で、上田さんについての考察があったような」という気がして、引っ張り出してきた。人間、意外と頭のどこかで、覚えているものである。案の定、上田氏の創作について書いてあった。この文章、全体的に面白いのだが、とりあえず制作プロセスに関する部分だけ抜粋する。

上田氏が書き上げた脚本からスタートするのではなく、上田氏の考えた状況設定と出演者の人たちの「エチュード(即興)」から始まる、というのは、私が小説を書くときに、「とりあえず文章を書いてみる」ことから始めるのと同じである。

エチュードは、出演者、舞台装置、その場の雰囲気、その他もろもろの影響を受け、上田氏が意識的にコントロールできるようなものではないだろう。だからこそ思いがけないかたちで発見される「面白さ」があるだろう。それらの断片と断片を響き合わせて、上田氏は一つの理想的な展開を見つけだす。「展開」は結果なのであって、はじめから目指されているものではないはずである。
(中略)
エチュードを繰り返しながら上田氏が何をしているかといえば、おそらくその「ヘンテコなシステム」のあらゆる機能をテストし尽くそうとしているにちがいない。(中略)ヨーロッパ企画の舞台は明確なコンセプトを持っていて、それが舞台装置とも渾然一体となっている。そのコンセプトは一つの「システム」を体現している。それは我々の日常生活とはちょっぴり異質なものである。ヨーロッパ企画の「SFっぽさ」はそこに由来する。(中略)人間たちの動きが一連の流れを辿り、システムが持つ全機能の検証が終わるとき、ヨーロッパ企画の舞台は終わる。それぞれの人間が成長するとかしないとか、事件が解決するとかしないとか、そういうことに主眼があるのではない。そのシステムがどれだけ多機能で、どれだけヘンテコかということに主眼がある。

続けて、自らの作品づくりとの関連を次のように述べる。

先ほど私は、エチュードを繰り返しながら上田氏は「ヘンテコなシステム」のあらゆる機能をテストしている、と書いた。それとはまったく同じことが私自身についても言える。私は文章の流れとリズムによって、主人公というシステムの機能をテストしている。最初からそのシステムのすべてを決めているのではなく、文章を書きながら、そのシステムの輪郭をなぞっている。そうすると、必ず文章そのものを通して思いがけないものが見つかる。それはおそらく出演者たちの相互作用によって、上田氏が見つけようといているものと同じだろう

要は「自分が作りたい作品の全体構想をあらかじめ粒度高くFIXするなんてことはできない」ということである。
同じ『太陽と乙女』の別の項でも次のように述べている。

何をおいてもまず仕事にとりかからなければならない。それが一番難しい。(中略)書きたいことを見つけると、次はある程度準備をする。どんなことをするのかというと、それがどのような小説になるのか、漠然と思い描いてみる。書きたいことを並べて、なんとか物語の流れを作ってみる。しかし、準備はあくまで準備にすぎない。事前の構想がどれぐらい実現するかというと、ほとんどしないのである。
だいたい小説の文章が一行も書かれていない状態で、その小説の行き着く先を想像するのは不可能である。

(中略)
私の場合、書いてみなければ何も分からない。
「この物語はおもしろくなるのではないか?」
そういう予感だけは持っている。そうでなければ始めようがない。しかしその予感が本物なのか、あるいは錯覚なのかは、実際に文章を積み重ねていかなければ確かめることができない。私はモーツァルトではないから、作品全体の曖昧な破片が頭の中に降ってくるだけなのである。だから、発掘された土器を復元するようにその破片を組み合わせ、小説の世界を再現してやらなければならない。

とりあえず作りはじめてみて、作りながら新たな発見を繰り返す。そういう風に制作は進めていくのである。
森見氏が言及しているのは、自身と上田氏の作品づくりのおけるプロセスであるが、実はこれ、あらゆるものを作るときに言えるのではないか。アメリカの哲学者でありプラグマティズムの創始者でもあるC・S・パース(1839〜1914)の仮説に基づく厳密でない推論「アブダクション」のアプローチそのものではないだろうか。

思ったよりも長くなりそうなので、とりあえず今回はここまでにするが、せっかくなので、「サマータイムマシン・ブルース」という映画について少しだけ。主要キャストの中に、若い頃の瑛太さん、上野樹里さん、真木よう子さん、ムロツヨシさんなどがいて、今思うとすごく貴重である。感情が大きく揺さぶられることは少なかったけれど、絵に描いたような「地方都市の大学生の夏」がとても爽やかに表現されていいる。どこか懐かしさも感じられる、とても日本の夏らしい映画である。

#森見登美彦 #四畳半タイムマシンブルース #太陽と乙女 #上田誠 #サマータイムマシン・ブルース #パース #アブダクション

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