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心を鷲掴みにする,人種問題を描いた小説。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

20万部突破の大人気書籍「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を祖母から譲り受けて読んだ感想を書こうと思う。

ちなみに今回読む前までは、ネタバレも読書レビューも何も見ることはなく、人気だという事実だけが目の前を通過していた。

中学生の男の子の表紙なのでなにか部活の青春小説なのかなと思っていたが、予想は180度といっていいほど覆された。

優等生の「ぼく」が通い始めたのは、人種も貧富もごちゃまぜのイカした「元・底辺中学校」だった。ただでさえ思春期ってやつなのに、毎日が事件の連続だ。人種差別丸出しの美少年、ジェンダーに悩むサッカー小僧。時には貧富の差でギスギスしたり、アイデンティティに悩んだり……。何が正しいのか。正しければ何でもいいのか。生きていくうえで本当に大切なことは何か。世界の縮図のような日常を、思春期真っ只中の息子と パンクな母ちゃんの著者は、ともに考え悩み乗り越えていく。連載中から熱狂的な感想が飛び交った、私的で普遍的な「親子の成長物語」。 https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/より抜粋。


マクロとミクロという言葉がある。

マクロというのは大規模な方、ミクロというのは小規模な方で、
よく使われるのは経済学などである。

人種や貧困の差別があってはならない、人類はみな平等であるべきだ。

日本ではマクロでそのような教育を受け、私個人的にミクロの目線で見てもたしかに人種の差というものはあまり感じずに生活をしてきた実感もある。


しかし国を変え、この小説はイギリス、移民国家が舞台である。

いくらマクロで人種差別をするな、平等に扱え、と説かれていても、
個人的な主観、すなわちミクロの視点で見ると移民国家での生活は差別だらけ、
そしてそれを感じさせるのは周りの白人というよりも身近な息子なのである。

いや、息子が差別を母親に感じさせる、というよりは、
世界には差別があって
それをミクロで理解する能力、「エンパシー」を身につけていく過程をエッセイとして描いているというほうが適切であろう。

この小説が言いたいのは、
日本人が差別を「自分ごと」として認識し、改めて考える機会を作ってみませんか?ということだと想像する。


日本人には差別はあるが、多様性のある差別ではない。


・「日本人」と「その他の国のひと」

・「ふつうの家庭のひと」と「ホームレスとか、貧しい人」


こんな対比ではないだろうか。

最近は外国人労働者が増えているといっても、我々の国ニッポンは、移民国家ではない。

標準的な生活をしている、日本国籍を最初から持って生まれてきた人がほとんどで、その他、という分類分けがされる。

これによって日本人は人種の違うひとを「ただ受け入れよう」というような認め方しかしていないように、個人的には思う。

マクロで見たらそれでも良い。

ただ、実際に移民が多く住むようになった場合、
日本人のそれぞれにミクロの考え方の根っこがなければ、差別は増え続けるだろう。

根っこというのは、「自分ごととして捉えること」だ。
この本の中では『自分で誰かの靴を履いてみること』だと記されている。


貧困の人は、自分が困っていることを人に伝えるのに抵抗を覚える。


この小説の中でも、貧困街に住む子供がおり、その子供に修理した制服を与えるシーンがある。

どうやって渡したら、気を使っているように思われないだろうか。

どうやって渡したら、差別しているように見えないだろうか。

非常に細かな悩みと思うかもしれないが、ミクロの悩みはこれにつきる。

要は、相手とのコミュニケーションの取り方を学ぶべきだと思う。


日頃、会社の人間や自らのサークル内での人間としか言葉を交わすことはないが、

サークル外の場面で、(金銭面や人種が違う人と対面する場面で)

相手の立場に立つ、そしてコミュニケーションを取り始めることが今後必要になる可能性は高いだろう。

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