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#8 属性

 ある特定の身体的特徴をもつ人々を(そのことを理由として)否定的に扱うことは明らかな差別である。血液型は本人の意志で選択できない身体的特徴の一つである。したがって,血液型で他者を否定的に扱うことは差別なのである。

山岡重行『テレビ番組が増幅させる血液型差別』心理学ワールド52号 2011年1月 日本心理学会 

 以前出席したあるパーティーの席上、初対面の人とふとしたきっかけで会話をすることがあった。しばらく当たり障りのない会話が続いていたのだが、次第になんとなくその人の少しなれなれしい態度や話しっぷりに馴染めず、会話を早く切り上げようと思っていた矢先、相手が偶然にも同じ出身高校であることが分かり、それを境に相手に対する私のそれまでの微妙な感情がきれいに取り払われ、同郷の昔話に長時間花を咲かせることとなった。もしかすると似たような体験の一度や二度は誰にでもあるのではないだろうか。

 私たちは、その一生で数多くの属性を身につけていく。冒頭言及された血液型をはじめ、性別、人種民族といった身体生物的に不変固定的な属性もあれば、学校や会社のような帰属集団や学歴や職業といった経歴、その他社会的地位や身分、政治社会的信条や家族・ライフスタイルに至るまで、人生を送る過程において新たに加わったり消失したり、さまざま変化を受けるいわば社会的な属性も数多くある。
 上述の個人的エピソードでも明らかなように、属性の表明が初対面の相手に対する不安と不信感情のハードルを下げ、互いの心理的距離感を縮め親近感と安心感を醸成させ、良好な関係を育む場合が少なくない一方で、冒頭引用された血液型のような属性が、まったく根拠のない性格やタイプ、行動パターンのステレオタイプを生み、偏見や差別、相手を一方的に見下す傲慢な態度や優越感情を生むこともある。


 もともと属性の共通性や相違自体に意味価値はなく、同じ・違いという「区分」があるにすぎない。けれども私たち人は、そこに記憶や知識、経験などに基づいたそれぞれに抱く”心情的色付け”を、何らかの価値判断基準や言動パターンとして実装しがちだ。
 「同じ」にはある種の親しみを、「違い」には忌避感、嫌悪感を抱きやすい傾向(逆の場合もある)にある私たちは、日常限定的な「あるある感」なり「的中感」、あるいは単なる好き嫌いにすぎない属性エピソードに「正しい」「事実」というラベルを無意識のうちに貼ってしまっていることに意外と気づいていない。
 「血液型や学歴など参考程度であることぐらい百も承知」という安易な自己信頼という心理的誤謬ごびゅうこそが、属性差別の持つ真の危うさだ。

 私たちの脳は、自分の直接的利害や目的達成とは関係が希薄な物事についての判断は、できるだけ簡便に、深く掘り下げることなしに済ませようと、いわば「省エネモード機能」を選択するようにできている。私たちは比較的シンプルで明白な世界観を持ちたい生き物であり、現象や出来事の多元性や複雑性を受容することは本来は苦手といえる。つまり私たちは面倒くさがり屋でもあるのだ。
 外形上の属性判断はそれはそれで優れて適応的な能力ではある一方で、そうした態度にあまり考えなしに平常運転的にのめりこんでしまう場合、客観的事実やら個別事情、本性的差異という要素に対する感受性や柔軟な受容性が棄捨されていることに無頓着になりがちだ。
 属性自体に良いも悪いもなく、属性意識に基づく判断は誰もが行なうことだが、肝心なのはそれを良好な対人関係の範囲に制御する能力。それこそが真に社会適応的なスキルだといえる。

まぁ、なんといっても『B型の獅子座』なんですから、あの人は。

 カウンセリングも終わりに近づいた頃、「ね、分かるでしょ」と言わんばかりに目くばせをしてきたあるクライエントさんは、文句のつけようのない経歴と肩書をお持ちのある大企業の重役。

 それまで温厚で高い知的能力を感じさせていた人が、最後になって血液型で他者人格を真面目にあっさり結論づけてしまったことに対する私の少なからぬショックの根底にあるのも、よくよく考えてみれば、「大手一流企業の重役」という属性に対して私が寄せていた根拠希薄な信頼感であったことも皮肉といえば皮肉と言えるだろうか。なんと返答したらよいものか迷ってしまった私はその「B型獅子座」だったのだが。
 属性とは身についたものでなく、心がまとうものなのだ。

人は見かけによる?よらない?・スキーマという呪縛(こころの道草だより)


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