あなた、ごはんにします? お風呂にします? そ・れ・と・も……❤

「あなた、ごはんにします? お風呂にします? そ・れ・と・も……❤」
一糸まとわぬ肌の上にエプロン一枚羽織った妻が、しなをつくりながら帰宅したばかりの夫に迫る。
夫は青白い顔をして、きゅっと唇を固く結んでいる。それから徐に口を開く。
「下に……」
それを聞いた妻は受け取った鞄を夫の部屋へと運び、代わりに地下室の鍵と帰服の剣を手に持って戻ってくる。その二つを夫へ渡す。
夫はそれを受け取ると、階段を降り、地下室の扉の前へ行く。
「あなた────」
妻はたまらずに、階段の上から声をかける。
夫は扉を開いてから振り返り、
「明日の朝には、戻るよ……」
そう告げると扉の先、更に下へと続く石畳の階段を降りていく。扉が閉まる。

その日の深夜、風呂から上がった妻が居間でテレビを見ている。
「なんでそんなこと、アンタに言われなきゃいけないのよ!」
画面の中で、マツコ・デラックスが若いADに向かって牙を向いている。ジャニーズの若い男がそれを窘める。
妻はそれを見るともなしに、手元のスマートフォンをいじっている。それさえもおざなりにただただ一定のリズムで上に向かってスワイプしているだけだ。妻の頭にあるのは夫の無事だけ……いやそうじゃない。と妻は思う。私がほんとうに考えているのは、あの地下室のことだ。地下へ続くあの階段。あの先には、一体なにがあるのだろうか……。いやそもそも、いつから夫はあの地下室へ、夜ごと一人で降りることに……? 上手く思い出せない……私は、いつから彼とここに住んでいるのだろう……?
ドンッ。と強く、短く、突き上げるような震動で、棚の上に置いた写真立が床に落ちる。妻はびくりと身体を起こす。咄嗟にSNSの画面を開く。何度も更新を繰り返す。それから、テレビのチャンネルをザッピング。
地震では、ない。では何か。決まっている。

妻は階段の上から地下室を見て、ひっ、と小さく息を呑む。
扉が開いている。その先に、下へ続く階段が見える。奇妙な階段だった。階段が、その周りの壁や天井自体を含め、やや右側に傾いている。そうして、ずっと下へ下へと続いている。その先の闇。妻は唐突に寒気を覚える。ある奇妙な考えが突然浮かんで、頭から離れない。
私は、この先にあるものを知っている。
フッと、扉を挟んで向こう側、地下へと続く階段の天井、一番手前についていた明かりが消える。地下へと続く道は完全な闇に沈む。
早く、扉を閉じなければ。妻の本能がそう告げている。早く。でなければ、来る。何が? しかし身体は石のように固まって動かない。地下室の闇の奥から目を逸らすことができない。ああ。なにも見えないはずなのに、それがやってくるのが分かる。下から、ずっと下から。階段を上って、こちらに。
やがて闇が沓摺を跨いでこちら側へと入ってくると……。

朝。
妻が居間の扉を開けると、既にネクタイを締めた夫が「おはよう」と声をかけてくる。
「あの、あなた、昨日は……」
「ん?」
「その、地下室のこと」
「えっ? 地下、なに?」
「……ううん、なんでもない」
妻はそういうと無理やり笑ってみせる。そうだ、地下室だなんて、なんて馬鹿げたことを。きっと夢に違いない。悪い夢……けれど何時から、何処からがそれなのだろうか?
「おはよう……」
と、息子が目を擦りやってくる。夫を見るなり、一言。
「……このひと、だあれ?」
妻は思わず息子の顔を見る。息子の顔から眠気が一瞬で飛び、驚きが浮かんで、瞬く間にひどく歪んでいくさま、なにか恐ろしいものでもみたかのように、がスローモーションのように感じられる。妻は夫のほうを振り向くことができないでいる。

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