彼女が最寄駅から自宅に帰るまでの間にちょっとした坂があるのだ、このほどその途上にエレベーターが作られた。
かといってわざわざ使うまでもなく、むしろエレベーターの上がった先とその後のルートを鑑みるにウチに帰るにはどちらかといえば遠回りになる。それでもまあ、せっかく私の払った税金で拵えたのだから一度くらい乗ってみるかと、そのじっとりとした暑い夜、彼女はエレベーターの扉を開いた。
ボタンは「開」と「閉」、「上」と「下」そして「受話器」の五つある。彼女は「閉」を押し、その後「上」を押した。扉が閉まると予期したものよりもだいぶもっさりとした調子で、エレベーターが上昇するのが感じられた。
まあどうということはない、エレベーターはエレベーターだし坂とてせいぜい五分もあれば登りきるようなものなのだから、あっという間にエレベーターは「上」に辿り着く。しかし扉は開かず、そのまま更に上昇を続ける。
おや、と彼女は思い、扉の窓から下の様子を伺う。エレベーターは塔のような、縦に長い(高さはおよそ四階分ほど)不愛想な直方体の中を行ったり来たりするはずで、その塔から短い橋を経て少し離れた歩道と接続されている。それらの構造物が、ゆっくりと下へ下へと離れていくのが見て取れる。エレベーターはもっさりとした速度ではあるが、しかし確実に上昇を続けている。
なるほどこういうこともあるのだなぁ、と彼女は思う。そしてエレベーター内の操作パネルを改めて見分する。「上」のボタンは点灯したままだ。試しに「下」を押し、何の変化も起きないことを確認すると、次に「閉」「開」を押す。エレベーターはなおも上昇する。
彼女は「受話器」のボタンを押してみる。十秒ほどのちに「ザーッ」というノイズが入る。「あの」と彼女は声を掛ける。「ザーッ」というノイズにまみれて、
「……あなたにやってもらいたいんですよ、あなたに」
という男の声がする。
「何をでしょう」
「……日時はまたメールします……ザーッ……」
暫くしてそのノイズ音も途絶えた。

*

しばらくして彼女は再び窓から下を覗く。街の明かりが随分と小さくなっている。おやまあどうしたものか、と彼女は少し困惑する。それから、肌寒くなったような気がして、脱いでいた上着を羽織る。

*

何だか身体が軽くなっていることに彼女は唐突に気が付く。次の瞬間には床から足が離れる。
空中で不格好に手足を曲げ伸ばし、どうにか窓のそばまで行き手すりを掴む。景色を見るとなるほど確かに地球は青く、丸い。それさえも少しずつ離れて遠くなっていっている。上のほうを見やると星々が見える。

*

重力が無いというのは厳密な表現ではないだろうが、とにかく重力がない、といった状況にも慣れてくると、彼女は両膝を抱え卵のように丸まりエレベーターの中を浮遊する。ふわふわと顔の前を浮いている自らの長い髪を手で払い、次は思い切ってショートにしてみようかなと彼女は考える。
たまに思い出したように窓の外を見る。下を覗けば、渦巻く幾つもの銀河が徐々に小さくなっていく。上のほうにはもう何も見えない。
そういえば空気はあとどのくらい持つのだろうか、帰りまで持てばよいのだが、と彼女は考える。

*

背中が天井にぶつかるのを感じて彼女は目を覚ます。彼女は手で天井を押して、エレベーターの床にふわりと着地する。と同時にゆっくりと肉体の重みが戻ってくる。さては「上」に着いたのだなと彼女は判断する。「開」を押すと果たして扉が開いた。彼女は伸びをしながらエレベーターの外に出る。
一面が真っ白い、だたっぴろい部屋だ。特に天井が異様に高く感じられるのだが、壁も床も天井も全部が真っ白なので具体的にどのくらいの広さ・高さ・奥行きなのか、なんとも見当がつかない。掃除が大変そうだなと彼女は思う。
その白い部屋に、古びた木製のサイドテーブルが一脚とその向かって右隣りに同じく木製の椅子が一脚あり、そこに一糸纏わぬ姿の老人が座っている。年相応に腹や胸、それに二の腕の肉がたるんでいるが概ね健康そうに見える。髪は白髪だがふさふさとしている。髪と同じく白い、そして立派な髭と陰毛を蓄え、黒いフチのやや角ばった眼鏡をかけている。何となく七、八十代くらいかなと思うのだがその貌そして眼には年齢より遥かに若々しい生気のようなものが宿っていると感じられた。
老人は腕を組み煙草をふかしている。サイドテーブルの上に置かれた灰皿にこんもりと吸い殻が溜まっている。すぱすぱと煙草を吸い、それを乱暴な手つきで灰皿にこすりつけて火を消す。その拍子に積まれた吸い殻がいくらかテーブルの上に零れる。腕を組み、激しく貧乏ゆすりをする。暫くするとまた新しい煙草を取り出してマッチを擦り、火をつける。老人の開かれた脚、左の膝がかくかくと小刻みに上下に揺れる。脚の間、真っ白い陰毛の奥に皴皴の真っ黒いちんぼうがしんなりとして椅子にへばっているのが見てとれる。
テーブルの上には吸い殻の詰まれた灰皿、何かの描かれたスケッチブックとパレットと絵筆、煙草とマッチ、そしてかなり古いタイプのラジオが置かれている。ラジオからは女の歌声でシャンソンが流れている。
彼女はこの老人に声を掛けようかと思い、実際口を開きかけたところで、
「……だから、玉ねぎが待っているでしょう?! 玉ねぎが!」
と老人が突然声を荒げる。
「玉ねぎ、ですか?」
と彼女は声を掛けるも老人は彼女のほうを見向きもしない。煙草をくわえ再び黙り込む。
あの、と彼女が声を掛けるのと同時にラジオから流れるシャンソンが消え、エレベーターで聞いたものと同じノイズまみれの男の声がする。
「……いやでもねミヤさん、そうはいっても最近の若い子はついてこないですよ……」
「だったら、ついて来れるやつだけ来てやればいいだろっ! なんでそれが出来ないんだっ!」
老人がラジオに向かって凄い剣幕で怒鳴り散らすと、どんっ、と机を叩く。
「すいませんが」と彼女は、今度ははっきりと声を掛ける。そこで漸く老人が彼女のほうを見る。
「何だっ!」
「ウチに帰りたいんですが、出口は何処にありますか」
「それは……ちゃんと、考えて、ものを言ってるのかっ」
「え? ええ、ええ」
「考えてないなら、なぜ生きるんだっ!」
「それは……」
「ふつうはそうはならないんだっ、ちゃんと見てっ……そうだろう!?」
「それは……仰る通りかもしれませんが……」
「だったら、なんでここにいるんだっ! どうしてっ……」
そこで老人はガバッと立ち上がると、背中を丸め、殆どつんのめるような姿勢で何処かへ、早足で歩き去っていく。その後ろ姿があっというまに見えなくなる。
仕方がないので、彼女は取り敢えず椅子に座る。ほんのりとまだ老人の尻の温かみがある。
テーブルの上を見る。煙草に手を伸ばし、マッチを擦る。ふぅーっと煙を吐く。
それから、あの老人のものだろうか、描きかけの絵に手を伸ばすとラジオからノイズが聞こえてくる。
「……だったら、何も知らせないほうがいいと思ったんですよ、逆にね……」
「はぁ……」
「……僕はね、てっきりここが終着だと……」
何の、ですか? と聞き返す間もなく、彼女は尻がストンと沈むのを感じる。床に尻がぶつかるものと思ったが、それすらもすり抜けて──。
自然落下。

*

彼女はベットの中で眼を覚ます。
いつもと変わらぬ、彼女自身の部屋のベット。その中で彼女はぐぅーっと伸びする。掌に何か丸いものがあることに気が付く。玉ねぎだ。
彼女はその玉ねぎを顔に近づけ、何となしに匂いを嗅いでみる。
その玉ねぎと、買い置きしておいたインスタント麺を使って、彼女はその日の昼に塩ラーメンをつくった。それを食べながら、やはり今度はショートヘアにしようかしら、といったことを考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?