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1.

 踏みしめるたびに厭な音を立てる急な階段を降りて蔵の地下へ辿り着くと、ひんやりといやな湿り方をした空気が僕の全身を撫でた。僕はしばらくのあいだ、そこにぼんやりと立っていた。鼻の奥に黴と埃の臭いがした。足の裏には土の湿り気があった。何かが足の指の上を這った気がして、僕は驚いて飛び上がったが、足元の闇にいくら目を凝らしても何も見えなかった。
 いま降りてきた階段(ほとんど梯子といってもいい角度だ)の先には地下への入口があった。それは濃淡も混じり気もない闇のなかに、ただぽっかりと空いた長方形としてそこに浮かんでいた。その形に切り取られた光(蔵の天井からつるされた、とても小さく、うらぶれた照明の光だ)が、僕のいるあたりをほんの少しだけ照らしていた。とても弱々しく頼りない光だった。その光が届くわずかな場所を除いた四方のすべてに、バターの塊(テーブルの上に直立するような、太く厚みのあるやつだ)のような闇がそびえ立っていた。おそらくは手で掴んでちぎることさえできそうな闇だった。僕は試しに光がわずかに届く範囲から、正面の闇に向かって手を突っ込んだ。指先に、水の層を突き破ったときのような「ずぶん」とした感触があった。その闇の中では、目の前にあるはずの僕の手の、おぼろげな輪郭さえ見つけることができなかった。僕は闇から手を引っこ抜いて、しばらく指を閉じたり開いたり、両手の指を組み合わせたりして、自分の手の感触と実在性を入念に確認した。
 地下への入口にはおじさんが立っていた。蔵のうらぶれた照明を背負ったおじさんの顔は影になっていて、どんな顔をしているのか見ることはできなかった。おじさんが何かを呟いたように見えた。その声は、水の中で泡が弾けるような「ぼこぼこ」という奇妙な響きとして僕の耳に届いた。僕は「なに?」と聞き返したのだけれど、その声もまた、普段の僕の声とはまるで聞こえ方が違っていた。上と下では空気の質が違っていて、それで音の聞こえ方まで変になっている異なっているのかもしれないと僕は思った。
 おじさんがまた何か呟いた。なんとか聞き取れたのは「……には」と「……らん」の二言だけだった。そして扉がゆっくりと閉じられた。光が(うらぶれてはいたけれど、それはこの地下へ届く唯一の光だった)細長くなり、最後には扉のわずかな隙間から洩れる残り滓だけになった。その滓も直ぐに消えた。蔵の明かりを消したのか、もしかしたら扉に布か何かをかぶせたのかもしれなかった。
 ここにきて、僕はようやく恐怖を覚えた。
 僕は闇の中にいた。それは純粋な闇だった。一切の階層も濃淡も妥協もない完璧な闇だった。僕は自分の両手を顔のすぐ前に持ってきた。どれだけ目を凝らしても、そこにあるはずの自分の手のひらも指も見ることはできなかった。僕は瞼を閉じ、そして開いた。瞼を閉じたときと全く同じ闇がそこにあった。
 ここの闇は僕が知っている闇とは何かが決定的に違っていた。それはボリュームであり、粘り気であり、臭いであった。闇が僕の顔を、首を、耳を、肩を、乳首を、臍を、ペニスを、睾丸を、尻を、膝の裏を、足の指のあいだを這い、撫で、舐め、そして四方からぎゅっと握り、あるいは押していた。
 僕は何度か深呼吸をして(黴の臭いが肺いっぱいに拡がった)、なんとか気持ちを落ち着けようとした。それからふと、この地下はいったいどれくらいの広さなのだろうか? と思った。上にある蔵と同じくらいか、もしかするともっと広いのだろうか? 僕は両手をまっすぐ前に突き出して、摺り足で一歩ずつ前進した。こうやって前に進むうちに、反対側の壁に手がつくだろうと考えたからだ。闇の中を真っすぐに歩くというのは想像したよりも遥かに難しかったのだけれど、例え多少横に曲がったとしても、そのうちにどこかの壁に突き当たるはずだと僕は努めて楽観的に考え進んだ。
 僕はその闇の中をきっかり百歩(途中で自信が無くなったので、歩数が分からなくなった地点からさらに百歩数え直した)歩いた。それでも僕の指先はどこにも触れなかった。この地下はいったいどこまで広がっているのだろうか? 僕はそれ以上進むのを諦め、地下へ降りてきた階段のところまで戻ることにした。そこで僕は、はたと立ち尽くした。地上へ昇るための階段は、いまどっちの方向にあるのだろうか? 僕はそこから一歩も動けなくなった。
 四方の闇は、僕が最初に地下に降り立った時と比べていくらか膨れ上がったように感じられた。闇が(それは固いとまではいかなかったけれど、なんというか、「身がぎっしりと詰まっている」感じがした。まさに直立するバターの塊だ)、ぎゅうぎゅうと僕の頭を、背中を、腹を押してきた。とても不快な感じがした。僕はもう我慢できなくなって、とにかく向きを変えてがむしゃらに走り出した。何としても階段を上って、今すぐここから出なければならない。そのためには、どこでもいいから壁を見つけるんだ。僕は何度もこけて、膝や肘を打ち、すりむき、泣きべそをかきながら、一心不乱に走り続けた。速く走れば走るほど、周囲の闇が僕の手や足に纏わりついてきた。まるでプールの中で走っているみたいに僕は息苦しくなった。
 僕は何処にも辿り着かなかった。階段にも、壁にもぶつからなかった。身体に纏わりつく闇だけがぎしぎしとその密度を増していた。

 眠っていたのか、起きていたのか、目を開けても閉じても一緒なのであまり見当がつかなかった。僕はいつのまにか地面にうつ伏せに倒れているようだった。起き上がると体のあちこちで色んな種類の痛みが喚き声をあげていた。僕は身体じゅうをさすりながら、何か音はしないものかと耳を澄ませた。もしかしたら、父や母や祖父母や兄が、僕を探している声が聞こえるかもしれないと思ったからだ。しばらく闇の中でじっとうずくまって、ただひたすら耳に意識を集中していたけれど、結局何の音も聞こえなかった。そのことは僕をとても惨めな気持ちにさせた。みんな僕のことなんて忘れて、上で楽しく暮らしているに違いない(兄は持ってきたゲームを独り占めして、終いまでやり切ってしまうだろう!)、そして僕はこの黴と埃くさい地下で衰弱して、やがて飢えて死んでしまうんだ。そんな風に思えてきて、僕はめそめそと泣いた。
 ひとしきり泣き終えてから、僕はようやく、何処からか声がしていることに気が付いた。ひどくくしゃくしゃではあったけど、それは確かに人の声だった。
 人の声! 僕は飛び起きて両手を耳の裏に当てて頭上の、その声のする方向を探り当てようとした。父か、祖父か、あるいは兄だろうか? とにかく、僕を探している声に違いないと思った。とたんに、身体の底から温かいものが湧いてくるのが感じられた。
 そうして耳を澄ませているうちに、どうやらその声が上からではなく、下から、つまりこの地下のどこかから聞こえている、ということに気づいた。気づいた途端に、みぞおちの下のあたりがきゅっと引き攣れるような気持ちになって、僕はその場から一歩たりとも動くことが出来なくなった。
 声は闇のずっと向こうから聞こえてきていた。とても小さくて、低く、くしゃくしゃと掠れていて、「ぼそぼそ」と何かを話していた。声は、とてもゆっくりと、闇の向こうからこちらへ近づいてきた。その声はえんえんと同じ言葉を繰り返していたのだけれど、何と言っているかは聞き取れなかった。僕の太ももを温かいものが伝った。僕は闇の中に立ち尽くしていた。膝はがくがくと震えていたし、膝から下は何の感覚もなかった。呼吸をするたびに、肺の中に闇の塊が入ってくるのが感じられた。闇が、僕の穴という穴から入り込んで、僕のはらわたをかき回しているのが感じられた。
 声が地面を歩く音がした。声の吐く息の生温かさや臭い(流れのない澱に浮かぶ白く濁った目の魚のはらわたの臭いがした)を感じた。声は僕の目の前にやってきた。僕は目を瞑った。閉じた瞼の裏に濃淡のないのっぺりとした闇があり、闇の中に声がいるのが見えた。声は僕の目の前にいた。声の目が僕の目を舐めるのが見えた。小さく、低く、くしゃくしゃに掠れた声で、何かを呟いていた。えんえんと同じ言葉を繰り返していた。
 それはこういう言葉だった。

2.

 六年ぶりに実家に帰って夕食を食べていると、「そういえば」と母が話を始めた。
「おじいちゃんのところ、取り壊すことになってね」
「え、家を?」
「家と、あと蔵とだな」と父が言った。
 蔵。僕は実に二十年ぶりにあの蔵のことを、地下の闇のことを思い出していた。その瞬間まで、蔵も、地下の闇も、声のことさえすっかり忘れていたのだ。
 僕は地下での出来事を話した。声のことは話さなかった。なぜかは分からなかったが、なんとなく、このことは話さないほうが良い気がしたからだ。ひとしきり僕が話し終えてから、父はコリコリと首をひねり、「あそこ、地下なんて無かったけどなあ」と言った。
「えっ」
「覚えてないの? あんた、あのとき蔵で倒れてて。ひどい熱で。おじいちゃんちに泊まってるあいだじゅうずっと寝てたでしょうに」と母が言った。
 全く記憶になかった。そうか、僕はあの時、熱で寝込んでたのか……とすると、あの地下のことも、寝込んでいる間に見た悪い夢だったのだろうか?
「寝込んでる間、お前ずっと同じことばっかり呟いてて、おれ怖かったよ」と兄が笑いながら言った。
「えっ。僕、何て言ってた?」
 居間を流れる空気がいきなり逆さまになったみたいにその形を変えた。暗い土の底にいるような重苦しさを感じた。肺に入る空気は重く粘り、ひんやりと湿り始めていた。鼻をすんと鳴らすと黴と埃の臭いがした。天井に吊るされた照明から降り注ぐ光は僕の手元に届く前にぼろぼろになって、ひどくうらぶれた粒のようになった。

「まあ、その話はもういいだろ、なっ」
 父が、空になっていた僕のグラスにビールを注いだ。母は意味もなく「うふ、うふ」と引き攣れた笑い声をあげ、「そういえば」とパート先のくだらない話を始めた。それは本当に構造も面白みもない、強い苦痛さえ覚えるほどつまらない話だった。兄は母の話を聞いているのか、それともテレビを見ているのか、「あ、はははは」と紙やすりのように笑った。廊下にあの時のおじさんがいて、こちらを見ていた。居間の明かりが当たっているはずの顔は影になっていて、目も口も鼻も見えなかった。まるで最初からそうであるように、おじさんの顔は影そのものだった。
 父や母や兄の話す声や、テレビの音(ナイターの中継をやっていた。四回を待たずして既に大差がついていた)や、外から聞こえてくる蝉の鳴き声やカーテンを揺らす風の音や車がアスファルトを踏みしめる音が、僕の耳に聞こえてきた。それらの音はひどくくぐもっていて、まるで異なる空気の層をいくつも通過してきたみたいに「ぼこぼこ」と、水の泡立つような奇妙な響き方をした。その音のずっと向こうに混じり気のない闇が見えた。そして闇の中に声がいた。声はえんえんと同じ言葉を繰り返していた。
 声は闇の向こうからこちらへ近づいてきた。

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