Iという男がいる。普通の四年制大学を卒業し、都内のWeb制作会社に10年ほど勤めていた。
あるとき、何気なく立ち寄った庵野秀明展で、創造者のスピリットとでもいうのだろうか、とにかくそういったものにぐわっとあてられてしまい、彼の中で何かが、劇的に変わってしまった。
映画を作りたい、私は映画を作らねばならない、そういったある種の強迫観念じみた考えが彼の中で突然沸き起こったのである。
さてどうしたものか。彼はとりあえずググり、ジモティにて「監督募集・未経験可」というページを見つけると、急ぎ相手方にコンタクトを取った。

駅前でIがそわそわとしていると、果たしてジモティの男・Mが現れた。
Mは「お待たせして……」とぼそり呟く。
「ああ、いえ、そんなには……」
では……、と二人は手近な居酒屋に入った。
「生を二つ、あとすぐ出せるものはあるかな……」
おしぼりで顔をがっさーとやりながら、Mがもっちゃりとした調子で店員に尋ねる。
生ビールがふたつ、枝前、チャンジャ、冷奴などがやってくる。
「じゃあ、お疲れ……」と二人は曖昧な笑みを浮かべてグラスをコン、とぶつける。

Mは元々、学生時代から自主制作映画をつくっていて、今回はどうしてもそれを完成させたいのだ、という。
「どういった映画なんですか?」とIが聞けば、Mは枝豆をつまみウッフッフ、フボホッと笑い、しかし頑としてのらりくらりとこの質問を躱し続ける。最後まで具体的な内容を語ることはなかった。
その代わりに、これまでM自身が観てきた様々な映画について、深い造詣と愛憎をたっぷり込めて語るものだから、IはすっかりMの語りに夢中になってしまった。
「だからね、ここのショットはつまり、黒澤さんのアングルなんだよなぁ……」
豚足をもりもりとしゃぶり、手羽先の骨と自らの指で器用にシーンを再現しながら、Mがもっちゃりと語る。
「ああなるほど、これが黒澤さんの……」
Iもやはり豚足をもりもりしゃぶりながらそれに応じる。
彼らは一軒目を出、二軒目、三軒目と杯を重ねていった。
Iはすっかりべろべろになりながら、自身のなかの未だかたち成さぬ、もちゃっとした映画への巨大感情を吐きだす。ひょっとすればこのとき胃の中のものも少しくらい一緒に吐き出していたかもしれない。
「つまりあれだね、ホンを書かないと、ということ……」
「ホン? ああ、ええ、ホン。書いてぇ……でもぉ……何から書いたらいいのかぁ……」
そんな調子で終電を迎えた。
ここから近いから、とその日はMの家に泊まることになった。

共同玄関で靴を脱ぎ二階へ上がった一番奥がMの部屋だった。部屋の前の廊下に、黒いものが堆く積まれている。
「ビデオだね、入らないんだ」とM。
どうぞ。引き戸をあけるとこじんまりとした和室にも、同じように黒い矩形がみちみちと詰まれている。
Mがそのビデオの隙間を縫うように奥のほうへ消える。戻ってくると手には酒瓶とコップが二つ。
それからIとMは万年床にどかっと座り、再び映画にまつわる、もうその頃にはそれが映画の話なのか人生相談なのか愚痴なのかも曖昧なのだが、よもやま話をべろべろと語り合う。やがてIはうつらうつら、倒れるように横になる。崩れてきたビデオの角が側頭部に当たるのだが、そのまま鼾を立てる。

Iが再び目を覚ますと外はまだ暗い。数時間程度寝ていたのだろう、今は午前二時か、三時か。スマートフォンを探すのだがポケットにはない。
真っ暗な部屋のなか、一か所だけが明るい。テレビの画面、その光だ。ぼんやりとした視野が徐々にはっきりとしてくる。
二十歳そこそこだろうか、若い女が映っている。黒髪の長髪で、カメラに向かってはつらつとした様子で笑顔を見せる。小さくボリュームを絞っているが、周囲の幽かな話し声と、「カット! オッケー!」というような声がかろうじて聞き取れた。
「起こしたかな?」とMが振り返らずに声をかけてくる。
「いえ……すみません、寝てしまって……その、これが自主制作の?」
「うん……完成させたい映画、の素材だね」
「ははぁ、ところで、どういった話……」
「わからない」
わからない? Iは思わず聞き返す。
場面が切り替わる。アパートの一室でかなり砕けた服装の、先ほどの女が俯いている。
Mは何も喋らない。
「わからない、というのは……例えば、脚本なしで、イメージだけあって、取り敢えず撮った、といったようなこと……?」
「どうだろうねえ」
どうだろうねえ? とはどういう意味なのだろうか。Iはぼんやりとした頭で考えるが上手くまとまらない。
「僕も、貰っただけだから」とMが付け足す。
「貰った? なにを……」
「テープ」
「……このテープを、ですか?」
無言。
これまで聞いた内容と辻褄が合わなくなってくる。確か、学生時代から撮っていた映画がある、そう聞いたように思うが、それがこれではないのか? 貰ったというのは、どういうことなのか。
「良かったら、好きなのをもっていってよ。そのへんのテープ」
「ええと、それは……」
「全部、同じだから」
「同じ、というのは……?」
「これとさ」
Iはテープの山を改めて見る。いずれのテープにも、中身を示すラベルが貼られていない。それからMの、先ほどの言葉を考える。全部一緒? 何が一緒なのだろう。まさか、中身すべてが……? 
Iは急速に酔いが覚めてくるのを感じる。
「その……映っている女の人、これはお知り合いか何か……」
無言。
こぁー、かかっ──、というビデオデッキの幽かな吐息だけが、しんとした部屋に響く。
画面から女が消える。手持ちカメラが右へ左へぶれながら、ずいずいと深い森を進んでいる。撮影者だろうか、荒い呼吸音がしっかりと入っている。
「……完成させないと終わらないよねぇ」
「……映画を、ですか?」
ここ見て。ここが黒澤さんのアングルなんだよなぁ。
Mがビデオを止めて画面を指さす。ミディアムショットよりやや寄ったくらいの画角だろうか、鬱蒼とした森が開けて、そこに先ほどの女が立っている。女の眼は自身の足元を見ている。
「黒澤さんのアングル?」
「黒澤さんのアングル」とM。
Iはもう一度、画面を見る。
停止した画面の中で、伏し目の女、その眼球がぎっと動く。
女と目が合った。

次に気が付いた時、Iは繁華街の路地の、黒いゴミ袋の山に半分ほど埋まった状態であった。突然耳に激痛がするので飛び起きると、ラグビーボールくらいあるのではないかと一瞬錯覚するような巨大なネズミが、ぼとりと地面に落ちて、のそっと起き上がり走り去っていく。
それからIは、脚本家養成のためのスクールに暫く通い、数年ほどうだうだと過ごした後、いまは幾つかのゲーム会社やごくたまに単発のラジオやTVドラマのための脚本を書いている。
あの後、何度かMの家を探したのだが、ついぞ再び辿り着くことはなかった。

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