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栗の花

これは今から30数年前、私が結婚して間もないころのお話です。
当時、私たちは市内中心部から少し外れた地区にある大型マンションに住んでいました。

妻は市の中心街、駅地下のブティックに勤めていたので、私より帰宅時間が遅く、夜9時近くのバスで帰って来ます。
新婚だったことと、マンション周辺の治安があまり良くなかったため、歩いて5、6分のところにあるバス停でしたが、私は毎晩妻を迎えに行っていました。

5月も下旬になったある夜、いつものように妻の帰宅時間より少し早めにバス停に着いた私は、珍しく先客がいることに気つきました。
これまでずっと私だけだったバス停に、この夜は一人の男性が立っています。

私はいつも停留所の標識よりもだいぶ後ろに下がったところで待つのですが、男性はそのさらに後ろにある小学校の塀際にいました。
午後8時を過ぎると、ここからバスに乗る人はめったにいません。
どうやら私同様、バスを降りてくる誰かを待っているようです。
近くにある街灯の明かりに照らされたその人は、20代後半くらい、長髪で上下黒っぽい服装をした痩せぎすな青年でした。

小学校の塀の向こうには、塀に沿って幾本かの樹木が植えられており、それらの木々のなかに1本の栗の木がありました。
ちょうど開花の時期をむかえたとみえ、薄クリーム色の特徴的な雄花が房をなして、煙るように咲きはじめているのが、夜目にもはっきりと見てとれました。
それと同時に栗の花特有の匂いも、あたりに漂いはじめています。
青年はそんな栗の花が咲く真下の塀に、もたれかかるように、うつむき加減に立っていました。

やがてバスがやって来ました。
妻がいつも帰ってくる便の一つ前のバスです。
バスが停まり数人の乗客が降りてきました。
全員私と同じマンションの住人らしく、みんな同じ方向へと帰って行きます。
すると青年も塀際をはなれて、その人達のあとを追うように歩いて行ってしまいました。

この日をさかいに、栗の花の下に立つ男性は毎夜現れるようになりました。
数日間その様子を見るともなしに見ていると、どうやら一人の女性のあとをつけているらしいとわかりました。

いつも妻のバスより一つ前の便から降りてくるその女性は20代半ばくらい、一見して普通のOLではなく、おそらく妻と同じような職業の人ではないかと感じました。
当時流行っていたハイウエストのパンツに柄物のブラウス、髪はふんわりとしたソバージュでメイクもきっちりとしていて、このあたりではちょっと目を引くような美人です。

男はそんな女性のあとを連日、しかも注意して見てみると夜毎に少しずつ間合いを詰めながらついて行っているのでした。
最初にもお話ししたようにあまり治安の良くない地域です。
痴漢やストーカーのおそれを懸念しましたが、女性が車の行き交う表通りをいつも帰って行っていることや、周囲にまだ人通りがあることももあり、急に何かがおこることはないだろうと判断して、このまま静観することにしました。

やがて6月に入り、梅雨の先ぶれのような雨が降る日の夜も、男は花にけむる栗の樹下(こした)に立っていました。
相変わらず黒っぽい服装で、そぼ降る雨の中、傘もささずに待っています。

バスが着き、お目当ての女性が降りてくると、男は私の横をその長髪をなびかせながら通り過ぎ、彼女が背にかたむけてさす傘のすぐ後ろにピタリと付きました。
けれど不思議なことに、男にそのような行動をとられても、
彼女は素知らぬ顔で歩いて行ったのでした。

そして、妻の休日をはさんだその2日後、栗の花は盛りを迎え、その匂いもあたりにひときわ濃く漂っていた夜、ついに男は女性の右斜め後ろに密着するように寄り添って歩いて行ったのです。

しかし、肩を抱かれるようにして歩く彼女に、男と顔を見合わせるような仕草はなく、親しげに語りかける様子もありません。
いつもどおり淡々と歩いて行くばかりです。

その姿を見送りながら私は気づいてしまいました。
あの雨の夜、私のそばを通り過ぎた男の髪がサラサラとなびいていたことに。男の肩や背中がまったく濡れていなかったことに・・・。

この日以降、バス停に男が立つことはなくなりました。
時を同じくして、あれほど激しく匂っていた栗の花もその樹下にほろほろと落ち尽くし、本格的な雨の季節となっていったのでした。
そして、バスを降りてくるあの女性の姿も、梅雨があける頃には見かけることはなくなってしまいました。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
怪異体験談受付け窓口 六十日目
2022.9.4

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