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李果掌上(りかしょうじょう)

これは今から50年ほど前、私が中学2年生の夏のお話です。

私が通っていた中学校のある市の南部は、
当時、急速にベッドタウン化が進み、生徒数も年々多くなっていた時期でした。
2年生もA組からJ組まで10クラス、400人ほどいて、顔を知らない生徒も多くいました。

そんな2年生全員が参加する、夏休み前の恒例行事として「大山(だいせん)登山」がありました。
鳥取県の名山「大山」への一泊二日の体験学習です。
初日は鳥取砂丘などを見て、大山のふもとの宿に宿泊、翌朝早くに登山を開始して、5~6時間ほどかけて昼過ぎには下山してくるという行程でした。

7月初旬の早朝、私たち青と赤のジャージの群れは、A組から順に1列になってゆるゆると登山道をのぼり始めました。

したたるような緑の山道を、3合目あたりまではクラスごとにまとまって登っていましたが、4合目を過ぎるころになると、徐々に体力の差がではじめて、クラスのまとまりは、しだいにばらばらになっていったのでした。

私自身も体力、ことに持久力はからっきしだったため、自分のクラスからは大きく遅れ、気がつけば最後尾近くになっていました。

それでもなんとか8合目が見えはじめた頃、急に雨が降りだしました。
雨は本降りの状態で、先生たちが協議した結果、登山は中止となり、私たちの3分の2近くは山頂を見ることなく、あえなく下山となったのです。

蕭蕭(しょうしょう)として降る雨の音の中、濡れた山道をときに滑ったり、尻もちをついたりしながら、400人の雨合羽の列は、敗残の兵のような足取りで下って行ったのでした。

私はというと、その頃にはすでに体力の限界に近く、最後尾の群れの中、とにかく転ばないことだけに気を配りながら、ひたすら足を動かしていました。

「疲れたね」
急にかたわらで声がしました。
驚いて声の方を見ると、黒っぽい雨合羽の見知らぬ男子生徒がこちらを見ています。

私たちのほとんどが、携帯用の白い半透明の雨合羽を着ている中、こんな黒っぽい雨合羽の子は見た覚えがなく、今までどこにいたんだろうなどと、私はぼんやりとした頭で考えていました。
しかし、「疲れたね」と、もう一度彼は言って、そのあとも親しげにいろいろと話しかけてくるのでした。

疲れ切っていた私は、まとわりつくように話し続ける彼の声をうとましく思いながら、適当に相槌をうったり言葉を返したりしていました。

山を下ってきても雨のやむ気配はなく、周囲には霧も出始めています。
話し続ける彼と並んで歩きながら、私はいつしか彼の声に導かれるように歩みを進めていたのでした。

「ねえ、ちょっと休んでいこうよ」
今度はふいに背後から声をかけられました。
振り向くと少し後ろに、うすいピンク色の雨合羽を着た女子生徒が、微笑みながら立っています。
黒っぽい雨合羽の男子生徒同様、この子も見知らぬ顔でしたが、なんとも可愛い感じの女の子でした。

男子生徒のおしゃべりにうんざりしていた私は足を止めて、彼女が近づいて来るのを、期待するような心持ちで待っていました。
「はい、どうぞ」
そう言いながら彼女は、どこから取り出したのか、1個のスモモの実を手渡してきたのでした。

手のひらに載せられたスモモの、熟れた瑞々しい色を見て、私は急に喉が渇いていることを思い出しました。
水筒のお茶はとうの昔になくなっています。
「ありがとう」
お礼の言葉と同時に、私はそのスモモに齧りついていました。
その味は疲れ果てていた私の体に、文字どおり染み渡るように感じられたのでした。

男子生徒は?と見ると、急に押し黙り、こちらを一瞥したあと、ひとり先へと歩いて行ってしまいました。
その姿を見送りながら、私がふたたびスモモを齧ろうとしたときに、
「おい、ダメじゃないか!」という野太い男性の怒鳴り声が響き渡りました。

あたりを見回すと、体育のM先生が血相を変えて、藪(やぶ)をかきわけながら近づいてきます。
私は状況が理解できずに呆然と立ちすくんでいましたが、M先生に腕を掴まれてぐいぐいと下山ルートの道に引き戻されました。

先生が言うには、山岳ガイドの人としんがりを歩いていたら、私が道を外れてフラフラと藪の中に入っていくのが見えたので、慌てて追いかけて来たのだということでした。
黒っぽい雨合羽の男子と話しながら、ずいぶん歩いたような気がしていましたが、実際には十数メートル程度、藪の中に踏み入っただけでした。

しかし、あのままもう少し先に進んでいたら、藪の先はいきなり急斜面になっていて、転げ落ちればケガどころでは済まなかったと、ガイドの人は渋い顔をしていました。

私は懸命に今あったことを説明しましたが、あの男子生徒も呼び止めてくれた女子生徒も、先生たちは見ていないと言います。
全ては疲労困憊した私が見た幻だったのでしょうか?
依然として降り止まない雨の中、ずぶ濡れになりながら、私は先生たちに両脇を抱えられるようにして下山したのでした。

ただ、その手の中には、瑞々しい色をたたえた齧りかけのスモモがひとつ、14歳の夏の、うつつの証(あかし)のように、ほのかに甘く香っていたのです。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
特別回「九タヒに一生を得た」経験のある人が集う凸待ち その2
2022.10.16

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