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呼出電話

これは、母の友人だった節子さんという女性が昔聞かせてくれたお話です。

時代は今から60年近く前、昭和39年頃のことです。
当時、節子さんは幼稚園の先生をしていました。
園の恒例行事だった、保護者同伴の遠足を翌日に控えたある日、節子さんは大事な伝達事項を一つ、受け持ちのクラスの保護者に伝え忘れていたことに気づきました。

気が付いたのは園児たちが帰宅したあとだったので、電話で直接保護者に連絡するしか手段はありませんでした。
節子さんはしかたなく、ひとり、夕暮れの迫る職員室に残って、園児の名簿を見ながら電話をかけていきました。

ここで少しその当時の電話事情を少しお話しておくと、昭和30年代後半は、一般の家庭にも、ダイヤル式の黒電話が急速に普及しはじめていた頃でした。
しかし、需要に対して供給が追いつかず、ひどいときは申し込んでから開通まで、2年以上待たなければならなかったということです。

そのような訳ですから、まだまだ電話のない家も多く、電話機がない家庭では、発信は公衆電話で、受信は近所の電話を持っている家や商店に電話をかけて、取り次いでもらうという「呼出電話」の仕組みが一般的でした。
近所の人が、取り次いで呼びに来てくれた時には、礼を言ってその家の電話を借りに行くわけで、今から考えると随分と人の良い、のんびりとした時代だったと思います。

そんな状況でしたので、この頃の一般家庭の電話機は、電話を借りにくる人のために玄関に置くのが普通でした。
それが、電話が普及して呼び出しの必要性が少なくなっていくと共に、電話機の置き場所も、玄関からサザエさんのアニメのように廊下の一角となり、そして家族の集まる居間へと移っていったのです。

学校や幼稚園の名簿も、個人情報の概念などない時代のことですから、住所から保護者の名前、電話番号まですべて記載されていました。
そして、電話のない家庭の場合は、番号のうしろに(呼)と書いてあったのです。

節子さんの受け持ちの園児の名簿にも、電話番号の末尾に(呼)と書かれてある家庭が三分の一ほどありました。
電話のある家は自営業や大家族の家庭がほとんどで、誰かしら家にいてスムーズに連絡できましたが、呼出電話の家庭は共働きの核家族など、保護者が不在の場合もあり、その時には取り次いでもらった先に伝言を頼むなどして、節子さんは電話をかけ続けていったのです。
そして、ようやく名簿の最後のひとり、Yちゃんという園児にまでたどりついたのでした。

Yちゃんの家もまた呼出電話でした。
「はい、〇〇でございます」
電話に出たのは、上品そうな物言いの老婦人でした。
「お忙しいところ大変申し訳ございません。わたくしS幼稚園の小林と申します。
恐れいりますが、Yさんにお取次ぎ願えませんでしょうか?」
「S幼稚園の小林さんですね。わかりました。ちょっとお待ちくださいね」
老婦人はそう言うと、ゴトリと受話器を置きました。

まだ保留音などない時代のこと、節子さんが耳を押し当てている受話器からは、すぐにガラガラと引き戸を開けて閉める音が聞こえてきました。
〈この家も玄関に電話機を置いているんだろうな…〉、そんなことをぼんやりと想像しながら、彼女は無音となった受話器を左耳に当てたまま肩と顎で挟んで、連絡名簿に漏れはなかったか確認をはじめたのでした。

ギィーーッ…
ふいに受話器の奥でかすかな音がしました。
どこか遠くで古びたドアが開いたような音です。
しかし、老婦人のほかに家人がいるのだろうと、その時は気にとめなかった節子さんでした。

すると、しばらくの無音のあと、今度はカタリ…コトリという小さな物音が、受話器の向こうから聞こえはじめました。
カタリ…コトリ、カタリ…コトリ・・・
〈なんの音だろう?〉
節子さんは名簿の確認をやめ、受話器を右手に持ち替えました。

カタリ…コトリ、カタリ…コトリ・・・
受話器を握りしめて、耳を澄まして聞いている彼女に向けて、その音はわ、ずかずつですが大きくはっきりとしてきているようでした。

〈これって、こっちに近づいてきてる?〉節子さんは少し恐ろしくなりました。
カタリ…コトリ、カタリ…コトリ・・・
節子さんは受話器を耳に押し当てたまま、夕暮れの職員室に、ひとり立ちつくしていました。
窓からは赤黒い夕映えの色が差し込み、彼女の全身を染めています。

受話器を耳から離しさえすれば音は聞こえなくなるのはわかっていましたが、節子さんは何かに魅入られたように、受話器を強く握りしめたまま動くことができませんでした。

ふと気がつけば、受話器の向こうから近づいて来る物音に、新たな音が加わっています。
カタリ…コトリ…ズズッ、カタリ…コトリ…ズズッ・・・
なにか湿った重いものを引きずるような音…。

カタリ…コトリ…ズズッ、カタリ…コトリ…ズズッ、
その音を聞きながら節子さんは、暗く長い廊下の向こうから、身体を引きずりながら徐々に迫ってくる得体の知れない者の姿を、恐怖心とともに想像せずにはいられませんでした。

カタリ…コトリ…ズズッ…「・・・スカ?」
カタリ…コトリ…ズズッ…「・・・デスカ?」
物音はかなり近づいてきており、同時に何かを呟くように言っている、しわがれたような声も聞こえ始めました。

カタリ…コトリ…ズズッ…「・・・マデスカ?」
カタリ…コトリ…ズズッ…「・・・ラサマデスカ?」
カタリ…コトリ…ズズッ…「ドチラサマデスカ?」
そう聞き取れた瞬間、
ガタッ!ゴトン!ゴトゴトゴトゴト!!
それまでゆっくりとしたテンポで聞こえていた物音は、急に速く大きくなり、節子さんの耳元へと迫ってきたのです。

「キャッ!!」
小さな悲鳴を上げて節子さんは受話器を放り投げました。
机の足元、コードの先でブラブラと受話器が揺れています。
声もなくその動きを見つめていた彼女の耳に
「もしもし、もしもし…」というかすかな女性の声が聞こえました。

恐るおそるコードを引あげて受話器を取り、耳にあてます。
「もしもし?、もしもし?」
「…もしもし」
「あっ、小林先生ですか?
お待たせしてすみませんでした。ちょっと手の離せない用事をしていたものですから…」
声の主はYちゃんの母親でした。

節子さんは、今そこに何か変なモノが居はしなかったかと、尋ねることさえ恐ろしく、震える声で手短に伝達事項を伝えて電話を切ったのでした。
緊張が解けてその場にへなへなと座り込んでしまった節子さんを、深く青い夕闇が静かに包み込んでいたのだという…そんなお話でした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「電話・ネットに纏わる不思議怖い体験談」
2023.6.17


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