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泥の中

これは沖縄出身のNさんという50代の男性から聞いたお話です。

彼は20代の頃は地元のダイビングショップに勤めていて、潜水士の資格も持っていました。
30歳を過ぎて結婚して、それを期に関西地方に転居。
仕事も若い頃の経験と資格を活かして、ゴルフボールダイバーという職に付いたのだそうです。

この仕事、最近では意外に稼げるレアな職業、珍しい仕事としてテレビでも時々紹介されるようになったので、ご存知の方もいるかも知れません。
ロストボールダイバーとも呼ばれ、その名のとおり早朝や夕方、あるいはゴルフ場の休みの日に、コース内の池に打ち込んでしまって、そのままになったボールを潜って回収する仕事です。

回収した状態のよいボールはきれいに洗浄されて、リユースボールとして安い価格で再販売されます。
通常は数年に一度、ゴルフ場からの依頼を受けて、数日間〜数週間かけてコースのすべての池にダイバーが潜ってボールを回収します。
しかし、伝統と格式を備えた名門コースでは、会員の名前が入ったボールがリユース品として市場に出回るのを嫌って、ダイバーは使わずに、池の水を抜いて回収し、そのまま処分してしまうところもあるのだとか。

ダイバーの給料は、一回のダイブで2.3万というところや、使ったボンベ1本につき幾らというところ、あるいは1球○○円として計算してくれる会社など業者によってさまざまですが、Nさんの会社は最も稼げる出来高払いだったそうです。

一口に池といっても、幼児用のプールのような浅くて小さなものから、湖のような特大サイズのものまでさまざまですが、だいたいは25メートルプールほどの大きさで、回収されるボールの数は、一つの池で数百個から、多いと数千個から1万個ちかくにのぼります。

さて、その日もNさんは休日中のゴルフコースで、アルバイトのH君と一緒に朝から仕事をしていました。
H君は潜水士の免許を持っていないので地上で待機して、万一の場合の安全確保と、回収したボールの袋詰めや積み込みにあたります。

池の底は泥や落ち葉が堆積しており、少し動くだけでもそれらが舞い上がって、視界はほぼゼロになります。
その中を手探りでボールを拾い上げては、手に持った大きな網の中に入れてゆき、一杯になればいったん浮上して新しい網と交換して再び水中へ…という作業の繰り返しです。

Nさんは午前中に一つの池での回収を終え、午後からは二つ目の比較的大きな池での作業にとりかかりました。
最初の潜水で周辺部の浅い箇所に沈んでいたボールをあらかた回収し終え、次にボンベを交換して、池の中心部の深い箇所へと潜っていったときのことです。

ライトの明かりも届かない暗闇の中で手探りで作業していると、丸く、しかしボールとは少し異なるものに手が触れました。
探ってみると丸いものの下に棒状のものが続いているようです。
池の底には、たまにゴルフクラブが埋まっていることがあり、Nさんは最初それかと思ったのだそうですが、棒状の箇所は短く、重さもクラブよりは軽いようでした。

拾い上げて目の前でライトをあててみると、それは一本の骨だったそうです。人であれば腕か脚の骨でしょうか。
その関節部分の丸くなったところが、ちょうどゴルフボールのような形と手触りだったのでした。

Nさんは骨をもったまましばらく考えていましたが、やがて意を決して元の泥の中に戻したのだそうです。
人間のものか獣のものかわからない骨のために警察沙汰にでもなれば、仕事にも支障が出るし、ゴルフ場にも迷惑がかかるので、頭蓋骨でも出ない限りは、見なかったことにしようと考えたのでした。

そのあとは頭蓋骨を探り当てないことを祈りながら作業を続けていたのですが、しばらくして、ふいに何者かが泥の中を探っている彼の手首をグッと掴んできたのだそうです。
あっと思う間もなく、その何者かは手首を掴んだまま、Nさんをぐいぐいと深みの方へ引っ張っていきます。

Nさんは振りほどこうと必死に抵抗しますが、すがるものとてない水中でのこと、掴まれたままどんどん引きずられていくのでした。
巻き上がる泥と泡の中、もがき続けるNさんの頭の中には、自分を引きずり込もうとしている得体の知れない者への恐怖とともに、今こうしてパニックになって荒い呼吸をしていることで、タンクの残圧がどんどん少なくなり、ゼロになってしまうのではないかという恐れも加わり、いっそう戦慄をおぼえたのでした。

どれほどもがき続けたのか、運良く池の底に沈んでいた倒木に引っかかる形でNさんの身体は止まり、やっとの思いで掴まれていた手首を振りほどいて、水面へと浮上したのでした。

大慌てで岸に上がろうとしますが、ゴルフ場の池は人工池のため、岸辺にも防水シートを張ってあるので、ツルツルと滑って踏ん張りがきかずなかなか岸へ上がれません。
早く岸へあがらないと、また水中に引きずり込まれるかもしれないいという恐怖と焦りで、バシャバシャと水面を叩いていたNさんでしたが、異変に気づいたH君が投げてくれたロープにつかまって、なんとか岸に這い上がることができたのでした。
もちろん、その日の仕事は中止。Nさんは早々に会社へと逃げ帰ったのです。

この話を聞いた会社の同僚たちは、霊に呼ばれたのではないかと口々に噂しあいました。
深夜のゴルフ場に許可なく忍び込んで、単独で池に入り、ボールを盗み出す者がいるので、そんな輩の誰かが溺れて亡くなったのではないか。
Nさんが見つけた骨はそんな奴のもので、気づいて欲しくてか、あるいは道連れに、Nさんを引きずり込もうとしたのではないかというのです。

しかし、Nさんはそうは思えなかったのだと言います。
なぜなら、必死でもがいている最中、巻き上がった泥の闇の向こう側に赤く光る何者かの大きな二つの目が確かに見えたからだと言うのでした。

いずれにしても、Nさんはこの日を堺にゴルフボールダイバーは辞め、山のOBロストボール回収へと仕事を変えたそうです。
「夏場なんか、ボールをバックパックいっぱいにに背負って、長袖・長ズボン・手袋にフードの完全防備で、アップダウンの激しい山を歩き回るのは確かにしんどいけど、池の中のあんな得体の知れんもんとでくわすことはないからな」とNさんは言うのでした。

そして「せやけど…」とNさんは続けます。
「ヘビやヒルは池にもいてたから大丈夫やけど、虫だけはかなわんわ。
蚊やダニ、スズメバチなんかいろいろおるけど、いちばんあかんのは、落ち葉をめくったときにたまに出くわすゴキブリの大群やろな。
あれ見たらお化けのほうがよっぽどましに思えるわ」
そう言いながらNさんはさも怖ろしそうに首をすくめたのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「仕事・職場に纏わる不思議な話」
2023.4.22

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