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いびき

とある酒宴の席で60代くらいの男性が、周囲に自慢するようにこんな話をしていました。

彼(仮にYさんとしておきます)が20代のはじめ、就職して間もないころの話です。
当時Yさんの会社では宿直勤務というものがありました。
海外との取引が多かったため、夜中でもすぐに対応できるようにと、営業職と技術職の人間がふたり一組となって、泊まり勤務をするのです。

オフィスに隣接する宿直室は8畳ほどの和室で、一方の壁には押入れと作り付けの洋服ダンスがあり、片隅に置かれた電話機とファックス、小さなテレビのほかには、部屋の真ん中に傷だらけの座卓と座椅子が二つ置いてあるだけの殺風景な部屋でした。

その日Yさんがペアを組むことになったのは営業部のEさんでした。
Eさんは40代くらい。丸々とした体型で、営業の人間らしく陽気で人懐っこくて、豪放磊落な感じの人です。

しかし、それが技術系の神経質なところのあるYさんには、押し付けがましく、デリカシーのない人として映り、ひそかに苦手としていた人物でした。

宿直勤務とはいっても、夜9時を過ぎるころには電話やファックスもかかってくることはほぼありません。
ふたりは交互に食事に行きシャワーを浴びて、あたりさわりのないことを話しながら時間をやりすごします。

午後零時前、夜中の電話がないことを祈りながら押し入れから煎餅布団をひっぱりだして、それぞれ床につきました。

ほどなくして、なかなか寝つけないYさんの耳にEさんの大きないびきが聞こえてきました。
このいびきもYさんがEさんを苦手とする要因のひとつでした。

その夜のいびきは特にひどく、耳栓をしてもとても寝つけるものではありません。
Yさんはだんだんと腹がたってきました。
ごそごそと起き上がり、大いびきのEさんの元へと這っていきました。

常夜灯のうすぼんやりとした明かりのもと、口を半開きにしたEさんの顔をまじまじと見つめます。
改めて眺めると、丸々とした二重顎の脂ぎったその顔は、見るほどに醜く、人ではない生き物のようにYさんの目には見えたのでした。

しばらくのあいだ、その醜い生き物をYさんは無感情に、ただただ見下ろしていました。
すると突然、うるさかったいびきが止まりました。
今ならば無呼吸症候群とわかりますが、当時のYさんには何事が起きたかわからず、同じように息を止めて見ていることしかできませんでした。

30秒近くたったころ、ひときわ大きないびきとともにEさんの呼吸は回復したのですが、そのいびきとともにEさんの口から、白っぽい風船のようなものがポンと飛び出しました。

それはピンポン玉よりもひとまわりくらい大きく、和菓子で使う求肥(ぎゅうひ)のような質感の丸い玉でした。
そんなものが寝ているEさんの顔の上、50センチほどの高さにふわふわと浮かんでいるのです。

その光景にYさんは驚きましたが、その玉を吐いてからは、静かに寝息をたてているEさんを見て、コイツが自分をさんざん悩ませたいびきの原因かという怒りの思いが、猛然と湧き上がってきたのだそうです。

彼はそっと立ち上がって、足音を忍ばせながらとなりの給湯室へ行き、小さな蓋付きの片手鍋を持って戻ってきました。
玉は相変わらず同じ場所に、ふらふらと浮かんでいます。
Yさんは鍋を片手に布団の足元から忍び寄り、虫取りの要領でひょいと玉を掬うと急いで蓋を閉じました。

鍋の中からはコトコトと音がしていましたが、彼はかたわらの畳の上に投げ出すように置くと、手近にあった雑誌を重しにして、そのまま自分の布団に戻っていきました。

静かになった真夜中の部屋で、Yさんは、害虫を退治した時のような達成感と爽快感、いびきに悩まされることのなくなった安堵感を抱きながら、いつになく深い眠りについたのでした。

翌朝、目覚ましのけたたましい音でYさんは目が覚めました。
綿のきれた薄い布団の中で、夢の名残のように昨夜の出来事をぼんやりと思い返していましたが、急に意識がはっきりとして、ガバリと半身を起こして慌ててあたりを見回しました。

あれだけ大きな音で目覚ましが鳴ったのに、Eさんはまだ寝ています。
そしてそのそばには、雑誌に埋もれるように片手鍋がありました。
「夢じゃなかったんだ…」
Yさんはひどい二日酔いに似た、重い、ぐしゃぐしゃとまとまらない感情のまま
布団を這い出て、Eさんの方へ寄っていきました。

Eさんは、昨夜最後に見たときと同じように静かな寝息をたてており、とりあえずは生きていることが確認できて安堵したYさんでした。
しかし、何度体を揺すってもEさんは目覚める気配がありません。

Yさんの心のなかでは、さまざまな思いが暴風雨のように吹き荒れていましたが、ふと思い立って、片手鍋の上の雑誌をどけて、恐る恐るその蓋を開けてみました。

鍋の中には、温泉卵の白身のような、ぷるぷるとした生白いものが、片隅にぐったりと小さくなってありました。
昨日Yさんが捕まえたものとは、似ても似つかない感触のものです。

見るほどに薄気味悪くなったYさんは、いっそこのまま捨ててしまおうかとも考えましたが、思い直していちかばちかの心持ちで、半開きのEさんの口にその生白いものを注ぎ入れてみました。

するとその温泉卵もどきは、意思があるかのようにEさんの口の中にするすると入っていきました。
しばらくするとEさんは、ブルッと体をふるわせて目を開きました。

焦点の合わないような目つきで、Yさんの顔やあたりのようすを見回していましたが、やがて無言のまま起き上がり、のろのろとした手付きで朝の身支度をはじめたそうです。
Yさんはそのようすを見て、とりあえずはほっと胸をなでおろしたのでした。

しかしこの日以降、Eさんの性格はガラリと変わってしまいました。
陽気で豪胆ささえ感じさせた言動はすっかりなくなり、いつも何かに怯えているような、おどおどとした態度が目立つようになりました。
そのような状態ですから営業成績も振るわなくなり、長い病欠の末、ついには退職してしまいました。

苦手だったEさんが居なくなり、正直ほっとしたYさんは、こののちはいびきに悩まされることなく、宿直勤務を続けられたんだと、場にそぐわないような大きな声で話し終え、高笑いをしていました。

でっぷりと太った二重顎の、脂でてかてかと光るその顔をみながら、私はふと、彼の魂を一昼夜ほど鍋の中に閉じ込めてやりたい思いに駆られたのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
怪異体験談受付け窓口 七十二日目
2023.2.26

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