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汝(な)が胸に

19歳のころから約25年間、私はとある短歌の会に所属していました。
会員数千人ほどでしたが全国規模の会で、月ごとの結社誌の発行のほかに、毎月、各地方ごとに歌会(かかい)という批評会のような集まりがありました。
参加者がそれぞれ自作の歌を持ち寄って、それについて互いに意見を交わし合う会です。

短歌の会というと高齢者の集まりのように思われるかもしれませんが、私の属していた会は、珍しく10代や20代の会員も多く、
私が30歳前後に毎月のように通っていた大阪の歌会(かかい)にも、常時6、7人の同世代の参加者がいました。

歌会(かかい)が終われば飲み会となり、私などは、むしろそちらの方を目当てに参加していたと言ってもいいくらいでした。

ある月の飲み会での事、二軒目のバーのカウンターで、マヤさんという女性が私の隣に座りました。
彼女は当時28歳くらい。歌手の中島美嘉(なかしまみか)に似た色白でスレンダーな女性です。

歌会(かかい)にはいつも黒ずくめの服装で現れるので、私たちの間では、〈黒衣の女(ひと)〉として独特な雰囲気を感じさせる存在でした。
その日も彼女は黒の総レースのワンピース姿で、白い肌と紅い口紅がいっそう際立って見えました。

彼女は、席につくとその艶のある低い声で、いきなりこんなことを言ってきたのです。
「あのね、猫猫庵さんの今日の歌、わたしのことを歌ってるののかと思って、ちょっとびっくりしちゃったんですよ」
「なに?それ」と私。

その日私が歌会(かかい)に出した歌は
〈汝(な)が胸にツンとあたりて落ちにけり
    羞(やさ)しも夜半(よわ)の紙ひこうきは〉という、
いわゆる相聞歌(そうもんか)、恋の歌でした。

しかしこの一首(いっしゅ)、当然ながらマヤさんとは何の関わりもない歌です。
わけを聞いてみると彼女はこんな事を話してくれました。

マヤさんは二十歳(はたち)の頃、アルバイトで絵のモデルをしていたそうです。
美術学校や町の絵画教室、画家個人のアトリエなどで、着衣とヌード、両方のモデルをしていたということです。

ある日、美術学校の教室でヌードのモデルをしていたときに、胸のあたりに何か軽いものが当たった感触がありました。
何だろうと思ってポーズをとったまま、目だけであたりを見回すと、床の上に白い小さな紙つぶてが落ちていました。

学生のいたずらかと思い、犯人を目でさがしましたが、それらしい人物は見当たりません。
それどころか誰一人として紙つぶてに気付いたようすはなかったそうです。
誰が投げたんだろう?と思いながら、再び床に目をやると、不思議なことに、もう紙つぶてはなくなっていました。

この日以降、モデルをつとめるたびに紙つぶてがどこからか飛んでくるようになりました。
ただし、飛んでくるのはヌードのときだけだったといいます。
肌にあたった感触はたしかにあり、足元や床に転がったところも見ているのですが、ちょっと目を離したすきに、それはいつも消えてしまっているのでした。

そして、周(まわ)りの人たちの反応をみていると、どうやら紙つぶてが見えているのは自分だけのようだと気づきました。

不思議なことだとは思いましたが、これといった実害がなかったため、しだいに慣れっこになり、気にしなくなったそうです。
やがて、モデルのアルバイトはやめてしまい、紙つぶてのことも長いあいだ忘れていました。

時が経(た)ち、この飲み会から半年ほど前のこと、マヤさんのもとに或る画家の追悼展の案内が届いたそうです。
生涯独身で、50歳を待たずに早逝(そうせい)したこの画家は、彼女がモデル時代、ことに可愛がってくれた先生だったので、マヤさんは懐かしく思い、その展覧会を観に行くことにしました。

小さなギャラリーに展示された20点ほどの作品のなかに、マヤさんを描いた1枚がありました。
ソファーに横たわる裸婦像。
昔、完成時に見せてもらった記憶のある作品です。

F8号ほどのその絵の前に立ったとき、マヤさんは目を疑ったそうです。
彼女が横たわるソファーの脚元や敷かれた絨毯の上に、点々と散らばる小さな白い紙つぶてが描かれていたのです。

わたししか見えていなかったはずの紙つぶてがなぜ…?
昔見せてもらったときには、そのようなものは描(か)かれていませんでした。
先生があとから描(か)き加えたに違いありません。

そういえば…と、彼女は思いました。
思い返してみると、この先生のアトリエでポーズをとっているときだけは、
紙つぶてが飛んでくることはなかったのです。

……身を寄せて囁くように、傍らの〈黒衣の女(ひと)〉はそんな話を語って聞かせてくれました。

私はといえば、彼女の艶やかな低い声音(こわね)と、そのうなじから匂い立つ〈プワゾン〉の香りに、いつしか陶然と頭(こうべ)を垂れて、グラスの底に沈む琥珀の色を、言葉もなく見つめ続けていたのでした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
怪異体験談受付け窓口 六十三日目
2022.10.2

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