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蝉声白尾(せんせいはくび)

今回は私の小学2年生の夏の、夢ともうつつともつかない記憶のお話です。

小学校低学年のころ、私はヴァイオリンを習っていました。
今から60年近く前の話です。
教室は街の楽器店の2階にあり、レッスンは毎週水曜日の夜でした。

夏休みになると、この水曜日のレッスンのほかに、日曜日にも特別レッスンというものがありました。
秋に開かれる発表会で演奏する曲を練習するのです。
そして、この特別レッスンは、教室ではなく先生の自宅で開かれるため、私は夏休みのあいだは毎週日曜日、母に連れられて先生の家まで通っていました。

先生の自宅は市の北西部、小高い山の麓にありました。
母とふたり、見慣れない車窓の景色をながめながらバスに揺られること40分ほど、真夏の万緑の山が見えてきます。

当時、この山の上には、遊戯施設や夏にはお化け屋敷があり、麓からはロープウエイで登れるようになっていました。
すぐそばには動物園もあり、バスで到着した乗客の大半はそちらの方へ向かっていきます。

私と母は、それらの人たちとは反対方向、山裾を回り込むように続く道に歩をすすめます。
先生の家はここからさらに15分ほど先。
真夏の日盛りのこと、行き交う人や車もありません。
このころはまだ舗装されていなかった、埃っぽい炎天下の道を、小さなヴァイオリンケースを提げた私と、日傘の母は二人無言で歩いて行くのでした。

白く乾いた道の左側には家々が建ち並んでいます。
道よりも一段低い土地に建っているため、その屋根がちょうど道の高さと同じになります。
当時はまだ平屋の家が多かったこともあって、左手は広く瓦の海が広がっているように見えました。

道の右側には山の、緑濃い夏の樹々が迫っており、そこからは山そのものが鳴いているのではないかと思うほどの蝉の声が響いてきます。

私はこのあとの退屈なレッスンのことや、終わったあとにバス停近くの店でたべるかき氷のことなどを思いながら、蝉の声に酔うようにぼんやりとした心持ちで歩いていました。

すると突然、左手の瓦の海の上を閃くように何かが奔(はし)り、次の瞬間、私たちの行く手、20メートルほど先にソレが居ました。

犬のようですが、大きさは牛や馬ほど、目の痛くなるような真っ白な長い毛並みで、尻尾もフサフサとして長く、体の3分の2ほどはありました。
貌(かお)は狐に近く、口には赤い玉のようなものを咥えています。

今でいえば『夏目友人帳』のニャンコ先生の正体、妖怪「斑(まだら)」の姿を想像していただければもっとも近いと思います。

そのようなモノが、道の行く手を塞ぐように立っているのですが、母には見えていないらしく、そちらのほうへ歩き続けています。
「おかあさん」と呼ぼうとしましたが声が出ません。

そのモノは、ちらりと私の方に貌(かお)を向けましたが、すぐに向き直り、山の頂を見上げるとかるく身を屈め、樹々の梢の上を一気に駆け上がっていきました。
そして、その姿は駆けのぼるほどにに頭の方から消えてゆき、最後まで見えていた白い尾もすぐに見えなくなりました。

ほんの数秒のあいだの出来事だったように思います。
あとには迫りくる濃い山の緑と、殷殷(いんいん)とした蝉の声が、濃密な空気のように響き渡っているばかりでした。

         初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
                  怪異体験談受付け窓口 六十一日目
2022.9.11


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