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【M-1 2023】今でも強烈に残るさいごのひとこと


M-1グランプリ2023、令和ロマンの決勝1回戦の漫才を締めくくったあのひとことを、半年経った今なお思い出すことがある。


『少女漫画』というテーマで、食パンをくわえた主人公の女の子と男の子が曲がり角で衝突してしまうというベタな設定について、二人が話し始めるところから始まるこの漫才。

衝突した男女は、のちに同じ学校に通う生徒であることに気が付くが、衝突した時、なぜお互い違う方向へ行き急いでいたのか、、という謎に会場一体となって考えようというネタで、ボケのくるまさんを筆頭に(というか単独で)アホ満載の見解を繰り広げていく。

最終的に、衝突した交差点は学校に面する交差点であり、女の子は裏口から、男の子は正門から入ったという仮説にたどり着き、会場も一度妙に納得してしまう雰囲気に包まれる。

仮説が立ち一件落着かと思ったのも束の間。
くるまさんがひと言。


「ダメだ、あんまこれ面白くない」


面白くないというただそれだけの理由で、自分で導き出した仮説を一蹴し、結局他の仮説の方が面白かったという始末。まさかだった。

その仮説は限りなく正解に近いかもしれないが、正解を導き出そうとすること自体が愚行であり、過程を楽しむことにこそ価値があるとでも言うように、漫才はくるまさんのこんな言葉で締めくくられる。




「つまらない正解を愛するよりも、面白そうなフェイクを愛せよ?」




はじめ聞いた時は「散々暴れ回っていたのに、ちょっといいこと言って終わるとかどんな締め方だよ」としか思わなかったし、ケムリさんの「なんだお前」というシンプルツッコミにめちゃくちゃ笑わされた。


しかし、途中のあほらしいやり取りから一転して、あまりにもメッセージ性の強すぎるこの一言で締めくくられたのが意外すぎたこともあり、笑いが引いたあとはしばらくポカーンとしてしまった。
ついさっきまで日体大のくだりに散々爆笑していたとは思えない、すごくいい物語を読み終わった後のような、満足感に包まれていた。




なぜこんなに残るものがあるのか。
不思議でたまらなかった。


「今年のM-1面白かったな〜」と余韻に浸りつつ、このモヤモヤを抱えて数日過ごしていたが、解放されるのは思いのほかすぐのことであった。



数年前に見た『ビッグ・フィッシュ』という映画を見終わった後の感想と全く同じだったのだ。





〜映画『ビッグ・フィッシュ』あらすじ〜
父エドワードは自分の人生を物語のように語り、聞く人を楽しませることが大好きだ。
息子のウィルも父の話のファンの1人であったが、歳をとるにつれてそれが作り話だと気付き、いつしか素直に聞けなくなってしまう。

そして息子ウィルの結婚式。
エドワードは得意げにまたその話をして来客たちを楽しませるが、あたかも自分が主役のように立ち振る舞う父に、ウィルは「今日の主役は誰だ」と苛立ち気分を損ねてしまう。結婚式を盛り上げるためだったが、かえって裏目に出てしまい、それ以降父子は疎遠になってしまう。
それから数年後、母から父が病に倒れたと連絡が入り、父子は久しぶりの再会を果たし…


とまあこんな感じ。


※下記より映画のネタバレを含みます。
「ちょうど見てみたかったとこなんだよ!」という方は読まないことをおすすめします。
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ウィルがすっかりあきれてしまった父の物語の内容だが、父の半世を面白おかしく語るものであった。

幼い頃に出会った魔女の眼帯下に隠された片目の中に自分の死に際を見たというところから始まり、身長5メートルの巨人と一緒に旅したことや、現在の妻と恋に落ちた時のことなどが語られる。

明らかな作り話と真実とが交錯し、ウィルがうんざりしてしてしまうのは当然のことであった。


しかしその物語の結末は誰にも話されていなかった。
病床で最期を悟った父は、物語の結末を息子ウィルに託し、ウィルは結末を考えることになる。

考え抜いた末に語られたのは、明るくてやさしい人生の終わり。
物語の中ですっかり元気になっている父は、ウィルと一緒に病院を抜け出して川に向かう。すると物語に登場してきた数々の人物が、父を歓迎して待ってくれていた。
そして妻エドワードに婚約指輪を渡したあと、大きな魚(ビッグ・フィッシュ)へと姿を変え、川を泳いでどこかへ去っていく。


この結末を聞き終えた父エドワードは、とても満ち足りた様子で、物語の大きな魚のごとくこの世を去る。



そして最期のシーンでは、ウィルとその妻の間にできた息子との対話の様子が描かれている。
父になったウィルは、父エドワードが残した物語をそっくりそのままの形で息子にしてあげていたのだ。
この物語は語り継がれ、その中で父は生き続けるのでした。というような温かい雰囲気に包まれてこの映画は幕を閉じる。



あれだけ忌み嫌っていた物語であったが、父の死と対面する中で、物語を通じて父が伝えたかったことをようやく理解した主人公。
あまりにも遅すぎる和解であったが、今までホラ話として煙たがっていた物語を愛ある嘘として受け入れていくところが何とも言えず、温かい気持ちになった。


そしてまた、映画の中のウィンだけでなく、私たちも同じようなことをしてしまっていたことに気づいた。
この映画を見る立場としても、どこまでが真実でどこまでが作り話なのか、真面目に真偽に決着をつけようとするほど難しい映画に感じてしまっていた。

映画を見ると、「作り手の思いを汲み取らなければ、ダメだ。」「何か学びを得なくちゃ!」と勝手に焦ってしまう自分がいる。

難しい映画を見た後にレビューサイトを見ては、「うわ、ここに気づけなかった。」と自分の読解力の低さに落胆することがある。


たしかこの映画を見た後も同じことをしていたと思う。
幸せだけれどもうまく言えない、なんとも不思議な気持ちに包まれながらも、「あの描写はどういう意味だったんだろう」「あれは真実だったのかな」と気づけばレビュー厨になっている自分がいた。


でも実はそんなことを必ずしもする必要はないのだと思う。

「ここは理解できなかったけど、こういう不思議な雰囲気を楽しめればいいんだな」と思えればいい。

この映画に関しては、「嘘は上手に使うことができれば、人を暖かい気持ちにさせる道具にもなり得るんだな」という学びを得られただけでも十分な収穫であった。




そして話は令和ロマンの漫才に戻る。

今まで父の語る物語が真実か嘘か、つまり正しいかどうかに囚われていた主人公が、父の作り話(=フェイク)を愛せるようになる。


さいごのひとことと重なりすぎていて、鳥肌が立ってしまった。


素人の勝手な解釈を付けるなんておこがましいし、もし万が一くるまさんに会えることがあったとしても「あの締めの言葉ってもしかしてビッグ・フィッシュを見終わった後の感想から来てたりしますか?」なんて絶対言えない。というか言わない。


この映画に限らず、色々なことに通ずる哲学のような話だと思う。




この感覚が今でもしっかりと残っている。
令和ロマン恐るべし。

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