見出し画像

命のジャッジ 【短編小説/ゾクっとする/人間の怖い話】スキマ小説シリーズ 通読目安:8分

「命は平等ではない・・・」

321ページある、小難しい哲学書を閉じると、塩川学(しおかわ まなぶ)は呟いた。

七畳の部屋には、普通の人なら、表紙を見ただけで眠くなるようなタイトルの本が、所狭しと本棚に詰め込まれている。
家に本が多いというより、本を保管するための部屋に、塩川が住んでいると言ったほうが正しいかもしれない。

「命は平等ではない・・・」

もう一度呟くと、塩川は棚の上に手を伸ばし、外出するときも使っているイヤホンを取って、耳に収めた。

音楽を聞きながら、タブレットでネットニュースをチェックする。
自分の周りが平和だと、人はそれが世界のすべてだと思ってしまうが、ニュースを見ていると、毎日のように、どこかで誰かが死んでいたり、事件に巻き込まれているのが分かる。
他人事だと思っていたものが、突然自分の身に降りかかったとき、人は現実を知るのだ。

残酷な現実は、それだけではない。
世の中には、大切にされる命と、軽視される命があり、どんなにきれいごとを並べたところで、結局世の中は、弱肉強食なのだと思い知らされる。そうだ、みんな平等なんて、ありえなくて、だから僕も・・・

「おっと、そろそろ寝ないとな」

途切れた集中力が、視界に時計を映し出した。
もうすぐ午前一時。
明日は少し早く仕事にいかなければならないから、そろそろ寝るべきだ。

塩川はそう考えると、イヤホンをはめたまま、電気を消してベッドに入った。


翌日。

少々眠かったが、起きてしまえば何とかなる。
ベッドから起き上がると、流れ作業のように準備を進め、20分後には家を出た。

「おはようございます」

抑揚もない声と、感情が消えたような表情で挨拶すると、塩川は自分の席に座って、出勤前と同じように、流れ作業で準備をして、仕事を始めた。

「塩川」

この声は、上司の増山だ。

「なんでしょう?」

「仕事を淡々とこなして、期限を守ってくれるのは、塩川の良いところではあるんだが・・・
 お客さんと話すときは、もう少し明るい表情できないか? 今日の午前中に会った菊池さん、おまえが少し怖かったって言ってたよ」

「・・・分かりました。
 気をつけてみます」

「頼むな」

「はい・・・」

増山は、塩川を好意的に見ているが、扱いづらいと思っていることも確かだった。

増山からすれば、自分も軽視される命・・・

そんな考えが頭に浮かぶと、塩川は自嘲気味に笑った。
しかし、それが自分なのだ。

人は変われない・・・
変われるという人もいるし、それも間違いではないが、別人のようにはなれない。

そもそも、変われる、変われない、そんなことをゴチャゴチャと考えたところで、結局前に進めないのなら意味はない。

ニーチェも言っているではないか。

『忘却はよりよき前進を生む』と。

つまらないことは忘れる。
それが、前に進む最善の思考なのだ。

機械のようにルーティンをこなし、定時になると、塩川はいつもの手順で片付けをして、会社を出た。


家に着くと、いつもより早くイヤホンをつけて、音楽を流した。
本棚から、そのときの気分に合った本を選んで、食事や読書といった、家にいるときの、ほとんどすべての時間を過ごすテーブルの前に座ると、本を開いてページをめくった。

無意識に手に取った本は、ニーチェ。
今日はそんな気分らしい。

「・・・」

本を読みながら、半分無意識に、音楽のボリュームを上げる。
本の内容が頭に入ってこない。
仕事でどんなに嫌なことがあっても、ニュースがどんなに陰鬱な事件を並べていても、本を読み、そこに集中できていれば、どうとでもなる・・・ そう、どうとでも・・・


いろいろと思考を巡らせ始めてから、一時間ぐらい経っただろうか。

もうイヤホンは必要ない。
耳を解放したまま、朝までゆっくり眠れるだろう。
ベッドに入ると、いつの間にか眠りに落ち、目を覚ましたときは、目覚ましが鳴る3分前だった。

いい朝だ。
今日からは、昨日と同じように、快適に眠れるだろう。
しばらく隣が騒がしいだろうが、そのうち静かになるはずだ。少なくとも、以前のように夜がうるさいということはない。
一番騒がしいだろう昼間は、仕事で家にはいないし、それも、せいぜい二週間ぐらいだろう。

「命は平等ではない・・・」

焦点の合わない目で、そう呟くと、塩川は少し口元を緩めた。

これでいい。
僕は間違っていない。
命は平等ではないのだから。

優先される命と、軽視される命がある。
あの隣人のような人間は、軽視される命だ。
少なくとも、僕よりも軽視される、軽視されるべき命・・・
僕の考えというより、世の中がそうなっている・・・

僕も、それに従っただけ・・・
そう僕は正しい・・・

いつもと違うことを考えていたせいか、準備に30分かかった。
家を出て、急ぎ足で駅に向かう。
気持ちは不思議なほど、風のない湖のように穏やかだ。

そして塩川は、理解した。

これが自分なのだと。

変われたわけではない。
気づいたのだ。

ずっと以前から内側にあった、もう一人の自分に・・・

みなさんに元気や癒やし、学びやある問題に対して考えるキッカケを提供し、みなさんの毎日が今よりもっと良くなるように、ジャンル問わず、従来の形に囚われず、物語を紡いでいきます。 一緒に、前に進みましょう。