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裏心 【短編小説/恋愛/大人の恋】スキマ小説シリーズ 通読目安:10分

「いってらっしゃい」

香川沙希(かがわ さき)は、夫を送り出すと、キッチンに行って、コーヒーを注ぎ足した。

出勤時間まで、まだ30分ほどある。
この貴重な一人の時間に、ゆっくりと本を読むのが、沙希の日課だった。

結婚して三年、子供はいない。
夫の香川輝政(かがわ てるまさ)は、真面目で優しく、出世欲はないが、仕事はきっちりこなし、家庭を大事にする。

理想的な夫・・・
周囲はそう言ってくれる。

不満はない。
強がりではなく、沙希自身も、夫に対する不満はなかった。
ただ、あまりにも穏やかな時間が続くと、少し怖くなる自分がいる。幸せだと思うたびに、子供のころの記憶にある、母の顔がチラつく。

「・・・そろそろ行かなきゃ」

コーヒーカップを洗い場に置くと、沙希は家を出た。

「おはようございます」

挨拶すると、同僚が笑顔で挨拶を返す。

結婚を機に、それまで勤めていた会社を辞めて、一年ほど専業主婦をした後に、派遣社員として働き始めた職場は、働き方改革で改善を促されるまでもなく、とても居心地のいい環境だった。

いつものように仕事をこなし、いつものように会社を出る。
帰りに買い物を済ませ、家に着いたら一息つき、夕食の準備をする。
一時間ほど経つと、夫が帰宅。
二人でその日のことを話しながら食事をする。

いつも通りの、穏やかな日々・・・

「ふぁぁぁ・・・
 そろそろ寝ようかな。
 今日はちょっと疲れたから(笑」

「うん。
 おやすみなさい」

「沙希はまだ起きてる?」

「うん。
 本の続きを読みたいから、もう少し・・・」

「そっか。
 明日の仕事に支障が出ない程度にね。

 おやすみ~」

夫が寝室に行くと、沙希はリビングで一人、コーヒーをお供に、読書を始めた。

「・・・」

何が不満なの? 沙希・・・

頭の中で声がする。

何も不満じゃない・・・

じゃあなんで、物足りなそうな顔をするの?

そんな顔してない・・・

表向きにはね。
けど、私は知ってる。

否定するほど、頭の中の声は大きくなる。
夫なら・・・ 職場の人なら・・・
違うと言えば、それ以上何も言わない。
それは信頼されているからだと、沙希は思っているが、問いかけてくるもう一人の自分は、そうではないらしい。

「・・・私には不満なんてない・・・
 何も・・・」

ヴー ヴー ヴー

そう呟いたとき、スマホが震えた。

「・・・こんな時間に電話・・・?
 ・・・!」

ディスプレイに表示された、"勇己"という名前に、沙希は一瞬、言葉を失った。

三ヶ尻勇己(みかじり いさみ)。

その名前を見るのは、何年ぶりだろうか。
鼓動が早くなる。
何を動揺しているの・・・

テーブルの上で震え続けるスマホは、静寂を破って響き続ける。

切らなきゃ・・・
このままじゃ夫に気づかれる・・・

出る必要はない・・・
こんな時間・・・
夫もいる・・・

しかし、必死の抵抗も虚しく、気づけば、沙希の手は、スマホを取って、通話ボタンを押していた。

「・・・もしもし・・・?」

「もしもし・・・
 沙希・・・?」

「・・・久しぶりね・・・」

「4年・・・ いや、5年ぶり・・・ かな・・・」

「そんなに前だっけ・・・

 それで・・・ 何・・・? 突然電話してきて・・・
 11時過ぎだよ? 今・・・」

「ああ・・・ 悪いと思ったんだけど、どうしても・・・
 ・・・沙希の声が聞きたくなってね・・・」

「・・・随分しおらしいことを言うのね・・・
 あなたらしくもない・・・

 酔ってるの・・・?」

「・・・ああ・・・
 セラータでね・・・
 久しぶりに、ワインを飲んでる・・・」

「セラータ・・・
 懐かしいわね・・・

 電話してていいの?
 他の・・・」

「一人だよ・・・」

「珍しいわね、あなたが一人で飲むなんて・・・
 飲むときは、必ず誰かを誘ってたのに・・・」

「俺だって、たまには一人で飲むこともあるさ・・・」

「・・・そうね・・・
 私が知ってるあなたは、5年前までのもの・・・
 それだけ時間が経てば、変わるわよね・・・」

「・・・沙希は、結婚したんだってな・・・
 こないだ、江森に会ったときに聞いたよ・・・」

「うん・・・」

「・・・幸せか・・・?」

「・・・もちろん、幸せよ・・・
 夫は優しいし、毎日が穏やかで・・・」

「本当に・・・」

「・・・え・・・?」

「本当に・・・
 心から幸せと言えるか・・・?」

「幸せよ・・・」

「・・・穏やかで幸せなんて、沙希らしくない・・・
 本当は、まだ俺のことを・・・」

「自惚れないで・・・
 あのときは、私も若かった・・・
 だから、自信たっぷりのあなたに惹かれた・・・

 けど、今は違う・・・
 気づいたの・・・ 自分が何を望んでいたか・・・

 あなたと付き合えていたら、楽しかったと思う・・・
 だけど、そうなっていたら、きっと後悔した・・・

 今の私は、無邪気に・・・ 情熱のままに飛び込んだりしない・・・ 付き合って楽しい人と、結婚したい人は違うのよ・・・」

「俺はまだ、沙希のことが好きだ・・・」

「・・・!」

「本当は、それが言いたくて電話した・・・
 俺のそばにいてほしい・・・」

「何言ってるの・・・今さら・・・
 酔ってるんでしょ?
 だからそんなこと・・・」

「俺は本気だ・・・
 
 沙希と会わなくなってから、何人もの女と付き合ったけど・・・
 君ほど俺を理解してくれる女はいなかった・・・

 周りが羨むような女と付き合ったこともあった・・・
 けど・・・ いつも何かが違うって思ってた・・・」

「・・・それで今は一人ってわけ・・・?
 一人で寂しいから、私に電話してきた・・・?」

「ああ・・・
 どうしても、沙希と話したかった・・・」

「歳をとったんじゃない?
 昔のあなたなら、絶対にそんなこと言わなかった・・・」

「・・・そうかもしれないな・・・

 仕事で失敗しちまってさ・・・
 損失は大きい・・・
 あの頃なら、自分一人の問題で済んだけど、今は違う・・・
 いや・・・ そんな言い訳をすること自体、歳をとったってことか・・・」

「・・・そうかもね・・・
 仕事で失敗して、酔って・・・
 だから、そんなことを言うのよ・・・

 そうでなきゃ、既婚者だと分かっている女に、こんな時間に電話してきて、告白しようなんて思わないわ・・・
 過去に何があったとしてもね・・・

 だから、今日のところは大目に見てあげる・・・
 今のグラスを飲み終わったら、帰ったほうがいいわ・・・」

「フフ・・・」

「なに・・・?」

「そういうところは、変わらないな・・・
 考えるより行動しちまう俺のことを、沙希はよくたしなめた・・・
 今みたいに・・・」

「そうだったかもね・・・
 けど、それも昔の話・・・
 もうそろそろ・・・」
 
「でも・・・」

沙希
「・・・!」

「俺は・・・
 たとえ酔ってても・・・
 冗談で好きなんて言ったりはしない・・・」

「・・・そうだとしても・・・
 今さら何も変わらないわ・・・

 私は結婚して、幸せに暮らしてる・・・
 あなたは独立して、仕事に生きてる・・・」

「・・・そうか・・・
 そうだよな・・・

 ごめん・・・
 急に電話して・・・
 言われたとおり、今のグラスを飲み終わったら、帰るよ・・・」

「・・・うん・・・」

「声が聞けて、嬉しかった・・・

 じゃあ・・・」

沙希
「うん・・・」

緞帳(どんちょう)が降りた舞台で、一人佇むような静寂・・・
沙希は、スマホを裏にしてテーブルに置くと、口元を抑えた。

「うう・・・
 うぅ・・・」

抑えようとするほど、涙が溢れる・・・
大きな声を出せば、夫が気づく・・・
そうなったら、ごまかす自信がない・・・

それなのに、沙希の必死の意志を無視するかのように、涙はとめどなく溢れてくる。

もう遅いの・・・
何もかも・・・

違う・・・
私はずっと待ってた・・・
彼からの電話・・・
ずっと欲しかった言葉・・・
だから番号も変えなかった・・・

それは昔の話・・・
今は違う・・・
私には、愛してくれる夫がいる・・・

言い訳ね。

違う・・・
彼はきっと、朝になれば忘れる・・・
酔いが覚めれば、きっと・・・

覚えててほしいでしょ・・・?
本気であってほしい・・・
そう思ってる・・・

あなたが何を言おうと・・・
私は今の生活を壊す気はない・・・
これ以上惑わせないで・・・

「すぅ・・・ ふぅ・・・」

沙希は、ゆっくりと、気持ちが落ち着くまで深呼吸を繰り返すと、洗面台で顔を洗い、夫が寝ているベッドに入った。

これでいい・・・
これでいいの・・・

「おはよう、あなた」

翌朝。
沙希は、何事もなかったように起きて、朝食を作った。

いつもどおり・・・

ただ一つ、昨日はゴメンというメッセージが届いたスマホを、後ろ手に隠していること以外は・・・

女心はいつも、言葉とは裏腹な想いを隠してる・・・

みなさんに元気や癒やし、学びやある問題に対して考えるキッカケを提供し、みなさんの毎日が今よりもっと良くなるように、ジャンル問わず、従来の形に囚われず、物語を紡いでいきます。 一緒に、前に進みましょう。