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【短編小説】 パープルレイン

 空にヒビが入るように稲妻が走って、紫色の雨が轟音を立てて降り注ぐ。

 温暖化の影響か、いったん雨が降るとなったら土砂降りだ。バケツをひっくり返したようななんて言い方じゃあ、まったく足りない。季節によっては、それが長時間続いたりもする。そんなんだから、街が浸水したり、山が崩れたり、下手すりゃ車や家が流されたりもする。そんなニュースは珍しくなくなった。全国と言わず、世界中。

 それは、良いんだが、いや、ぜんぜん良かぁないんだが、それに新たな問題が加わえられた。
 どこか、遠い国で戦争が起きた。
 どこかの国がどこかの国を侵略しようと、あからさまにきな臭い動きをするようになった。
 別のどっかの国もたまに試験と称して、ミサイルを打ち上げるようになった――自分らでは、どうしようもない話だ。巻き込まれない限りは、一般人にとっては他人事でしかない。気の毒だけれど。だけど、そう思わないヤツも世の中にはいたってことだ。
 そして、どこかの国の、環境なんちゃらって運動家をやってる科学者っていうか狂人、マッドサイエンティストだろう。そいつがキレて、やらかした。

『おまえらがそうやって争って、無駄にいらん温室効果ガス排出するから、よけいに天候がメチャクチャになるんじゃ、ボケェッ!』

 実際、そう言ったのかは知らないが、そういう主張らしい。噂では、水災害で酷い目にあったらしいとか、家族を亡くしたとか、いろいろ話が飛び交っているが、本当かどうかはわからない。だが、キレたことに間違いないだろう。そいつは、独自で開発したっていう霧状のなんかを、そこら中に撒き散らかした。最初は一人でやってたらしいけれど、そのうち環境なんちゃらの仲間とか、学生バイトなんかも雇って、あちこちに。


「うわ、キショ……エグい」

 大雨がやんだ後の早朝は、薄い雲があるものの青空が見えている。陽も上ってまもなくのこの時間帯にして、すでに蒸し暑い。ぬるいサウナ状態だ。

「こりゃ、ひでぇ。まだらになってんじゃんかよ」
「迷彩とかだったら、ちょっとカッコよかったかもしれんけれどなぁ……」
「昨日の夜、雷鳴ってたか?」
「鳴ってた……鳴ってましたよ。けっこう派手な音で」
「寝てたから、ちっとも気づかんかった」

 口々に軽口を叩く。俺たちの目の前にあるのは、紫色に染まった運搬用トラックだ。昨夜に降った雨でやられた。黄色かったコンクリートミキサー車も、色が混じってよけいにエライことになってる。綺麗に塗れていたらまだマシだったかもしれないが、色を適当にぶちまけたみたいなもんだから、みっともねぇどころの騒ぎじゃない。

 わけわかんねぇ。

 これが、そのイカれた科学者がやらからしたことだ――紫の雨を降らせる。空気中に噴霧されたなんかが、熱とか火薬の成分とかなんかと化学反応起こしながら爆散し、紫色の雨が降るようになった。最初は一部地域だけだったものが、成分が気流にのって世界中に広まった。結果、世界で一番、平和ボケしていると言われているこの国にも被害が及んだ。テロだ。
 一応、人体には無害らしいが、難しいことはよくわからん。問題は、その紫色が、雨水に混じってそこら中に染み付くようになったことだ。家も、車も、電柱やらポストやら、そこら中に。世界中に。
 世界が紫色に染まっている――。

「ただでさえ、工期が遅れ気味だってのに……」
「しょうがねぇ、ナンバープレートだけ洗って、今日はこのまんま行くぞ」
「えーっ」
「どうしようもないだろうが。高橋」

 ご指名だ。

「うっす」
「おまえ、今日はこっちで車洗っとけ。営業車とかワゴン車。きょう使わないやつ、順番に」
「了解っす」

 一度、染みついた色はなかなか落ちない。それ用の洗剤とポリッシャーを何度かけて、高圧洗浄機で洗い流して、やっと落ちる。普通のスポンジ使ってもできないことはないが、労力がハンパない。でも、やりすぎると地の塗装も剥げるから、気をつけなきゃいけない。
 幼稚園児にイタズラされたみたいな、ポップにも見える元は白い営業車を見てため息をつく。

「やるか……」

 スポンジに変えたポリッシャーのスイッチを入れる。フロント部分を泡で覆いながら何度も繰り返し往復する。最初は藤色だった泡も、そのうち白さが見えてくる。フロントが終われば、サイドも同じ作業をする。
 その頃には、汗でシャツが背中に張り付くようになる。だが、現場じゃないから、節約で空調服も着られない。こういうところで、零細企業は厳しいんだ。 
 件のイカれポンチな科学者は、銃火器にのみ反応するように作ったと言っているそうだ。雷に反応するとは思わなかった、と。雨を元に戻す方法は、今のところない。不可能だと言う。宙に舞っている化学成分を完全に除去しない限りは雨は紫色のまんまだし、雨が元に戻っても、地中に落ちた成分がいつ消えるかも、作った本人にもわからないそうだ。

『我々の主張を全世界に広めることに成功した! 雨が降るたびに、地球を消費し尽くそうとする己の欺瞞を思い出すがいい!』

 それを聞いた、別の団体が怒り狂ったらしい。

『なぜ、紫なんだ! 虹色にすべきだろう!?』

 わけわからん。

 
 一台洗って集中力も切れて、喉も乾いた。玄関脇に置いてある自販機に並ぶ数字には、毎度、うんざりする。仕方なく硬貨を三枚入れて、スポーツドリンクを買う。ボトルのキャップを開けて一気に流し込めば、少し甘さもある冷えた水が、乾いた全身に染み渡るようだった。うまい。三百円の味だ。

 紫色の雨が降るようになってから、飲料の値段が一斉にあがった。水道料も高くなった。新たに浄化フィルターが必要になったから、だそうだ。極力、もとの無色透明になるように設備投資が必要になった。値上げはそのせいだ。だからか、熱中症で病院に運ばれる患者の数も、こうなる前より数倍に跳ね上がったらしい。
 ほんのりと紫色に染まった便器は、見ているとモヤモヤする。

 昼休憩に入り、クーラーの聞いた事務所の休憩室で、持ってきた握り飯を食う。自前だ。自分で適当に作った飯は、特にうまくも不味くもない。腐らないよう社員用冷蔵庫に入れておいたから、ちょい冷たすぎるが、まあ、いいさ。今日の具は梅干しと肉味噌の二種類。それでも涼しい部屋で食えば、生き返る。本当は誰かに作ってもらいたいもんだが、時給働きの、学もなければなんの才能もない、頭も悪い金なし甲斐性なしの男に寄ってくる女はいない。

 ところで、たまにニュースとかに出てくる、ヒモを養ってる女ってどこにいるんだ? そんな女、お目にかかったことがないが、どこで見つけてくるんだろう。ぜひ、教えて欲しい。俺はろくでなしには違いないが、ガキを殺したり犯罪はやんないぞ。イケメンじゃあないが、見た目は普通だと思うし。

 なにがいかんのだ?

 俺は選ばれない。そういう星の下に生まれついたんだろうってくらい、他人から選ばれたことがない。女からも、仕事からも、町角でやってるショボい抽選会も、くじつき自販機でも、当たった試しがない。俺を一言で言うなら、多分、ハズレだ。
 家族は家族の一員として見てはくれてたみたいだが、べつに特別扱いってわけでもない。まあ、ただ親からしてみれば、期待には遠く及ばない、どうしようもないガキだったってだけだ。必死でなんとか理想に近づけようとしていた時期もあったが、無理だとわかったところで、諦めたみたいだ。
 俺もその方が楽だった。必死で何かになりたいと思ったことはない。目の前にあるものを受け入れて、良くもなく悪くもなく。したいこともなく、出来ることも大してない。
 だからと言って、グレたりもしなかった。今時、グレるにも金がいるんだ。そんな余分な金なんか持ってねぇよ。学生時代は、ちょうど不景気真っ最中で、うだつの上がらない普通のサラリーマンの家なんざ、住宅ローンと学費だけでカツカツだよ。小遣いなんざ、雀の涙ほどだ。気がついたら、すっからかんになっている。最低限、変にハブられないように流行りの漫画は読まなきゃいけねぇし、トレーディングカードなんてのも買わされたこともあったな。続かなかったけれど。そんなん、やってらんねぇのよ。あたま悪ぃし。稼ごうにも、無愛想な高校生のガキをバイトで雇ってくれるところなんて、なかったしな。世知辛ぇのは、今も変わらないけれど。

 善人だと胸張って言えないが、悪人でもない。ただ、やりたくない事をやらなかっただけだ。そんなの普通だと思うのだが、それで、誰にも選ばれない。選ばれないから、生活は一向に良くならない。自業自得だ。わかってる。
 おっさんの域にさしかかった今、たぶん、自分は一生このまんまなんだろうと、漠然と感じている。何者にもなれず、何者にもならない。何者かになれるかもしれない、と希望を持ったこともなくはなかったが、そんなものは、二秒でめくる少年漫画雑誌のページのどこかに消えちまった。

 休憩室にあるテレビに、灰色の空の下、紫色に染まった装甲車が列をなして走っている様子が映っていた。紫色の水玉模様が、黒っぽい車体に点々とついている様は、妙にポップで冗談みたいに見える。壊れて動かなくなったのだろう、道端に打ち捨てられている戦車も、紫色。もったいねぇ。俺には一生かかっても、戦車を買う金なんて稼げないのに。そんな高級品をああやってふざけた色にされて、田舎の藪の中に放置された軽トラやトラクターとかと、変わらない扱いするなんてない。そう思うと、やっぱり、戦争なんてくだらねぇとか思う。そんな無駄金あんなら、俺にくれよ。

 ああ、わかるよ、わかる。だから、こういう風にしたかったんだよな……イカれ科学者に共感するのはなんか悔しいから、鼻で笑ってやる。やらかした事を肯定はしない。絶対に。

「高橋くん、今日の洗車係、君だって聞いたんだけれど」

 不意に、営業事務の坂田さんだったかな、人の名前はなかなか覚えられない――から声がかかった。同じ作業服でも、俺と違ってパリッとしている。

「うっス」
「悪いけれど、午後から二トンが一台戻ってくるから、そいつを先に洗ってやってくれないかな。明日の現場で、街中走らなきゃいけないから」
「了解っす」
「社名がはっきり見えるようにしといてね。ナンバープレートと、あとは適当でいいから。終わったら、念の為、カバーかけておいて」
「了解っす」

 返事をしてテレビに視線を戻せば、ニュースは終わっていて、天気予報になっていた。今日は雨は降らなさそうだ。休憩時間もそろそろ終わり。二トントラックが待っている。

 二トントラックを洗いながら、昔はやった曲のサビ部分を鼻歌で歌う。べつに好きな曲ってわけじゃない。英語だからなに歌ってんのかてんで知らない。だけど、紫がパープルってことぐらいは知ってる。雨がレインってこともな。やたら長いサビのところだけは、どうしたわけか耳の中に残っていて、無意識のうちに鼻歌が出る。雨が紫色じゃなかった頃の歌だし、王子様もそんなつもりで作った曲じゃねぇだろうが。

 時間はかかったが、なんとか紫色を駆除できたことを坂田さんに報告する。全身、汗だくだったのが、冷房の効いた部屋に入って一気に冷える。生き返る。

「ついでにトラックを端の方に移動させておいてくれる?」
「俺、免許持ってないから、動かせないです」
「……ああ、そうなんだ……じゃあ、ええと、どうしようか。今、誰がいるかな? 誰でもいいから、動かせる人に移動させるよう伝えてくれる」
「……うい」

 部屋を出たら、また上下左右から熱気が押し寄せてきた。重量のないぶ厚い膜に覆われているみたいだ。涼しいところから出てきたから、余計にしんどい。敷地内を少しうろうろして、現場の人を見つけて、誰かにトラックを移動させてもらうよう伝える。すると、一瞬、微妙に不思議そうな顔をしてから、車のキーを受け取ってくれた。それで、「ああ、ここもダメかもな」と思った。
 今回、俺を採用したのは、使えれば問題なしで、使えなくても次の人手を見つけるまでの中継ぎのつもりだろう。真面目に働くってだけじゃあ、ダメなようだ。人手不足とか言って未経験者可でも、コンピュータが扱えた方がいい、自動車の免許を持ってた方がいい、それがなくても人当たりが良い、とかそれぞれ何かしら最低限の条件がある。そういうもんだ。最低賃金の時給だとしても、最低限の基礎ってのが必要だったりする。でも、コンピュータなんて、俺の頃は学校で習うことはなかったし、貧乏人には車なんて贅沢品で、興味も必要もなけりゃ免許取ろうって気にもなれなかった。
 素知らぬ顔で駐車場に戻り、ぬるくなったペットボトルの水を一口飲んで、また作業を始める。正社員になるまでの試用期間は、残りあと一ヶ月。次を探さなきゃな。どうすっかなぁ……ああ、くさくさする。

 終業時刻が来て、一人帰路につく。現場から戻ってきたやつとか、社員はまだほとんどが会社に残っている。書類仕事とかあるんだろう。途中、家の近くのスーパーに寄って、商品の乏しくなった食品棚から、足りないものを適当に見繕って買う。キャベツが特売だ。買っておこう。よく見れば、うっすらと紫がかったキャベツを手に取る。ちょっとお高い紫キャベツなんてのもあるが、同じ紫でもこいつは傷物扱いだ。人体に影響はないとか言っていても、主婦が嫌がるから。俺は気にしない。

「この間、テレビでやっていたの見たんだけれど、サバンナとかでも草が紫色に変わったせいで、野生の動物とかそれが草だって認識できなくなって、飢えて死んじゃったりするんだって」
「へぇ、かわいそ」
「紫色の深海魚とかも見つかったんだってよ。普通は白いはずのやつなんだって」
「えー、ちょっとそれは見てみたい」

 仕事帰りなのか、若い娘たちがキャベツを見て話しているのが聞こえた。……そうなのか。その場を離れ、レジすぐそばの雑誌コーナーで、無料の求人雑誌を引き抜いた。
 手にキャベツの重みを感じながら、薄暗くなった道を歩いて帰る。陽は沈んだのにまだまだ暑い。正社員になれたら、クーラー買おうと思ったのになあ……この二ヶ月で貯めたなけなしの金も、次の求職の間の生活費でまた消えちまうんだろう。

 やらかした科学者は捕まったとは聞いたが、それからどうなったかは知らない。外国の話だし。たぶん、檻の中だろう。それで、世の中をほんの少し変えられたことに喜んでいるんだろう、たぶん。どんなやつか知らないけれど、それなりに頭の出来もよくて、やらかす前は周囲からは立派な人だって言われていたんだろうと思う。それで稼げていたんだろうし。いいご身分だ。それまでの生活じゃあ足りなかったのか、とその日暮らしをする俺からしてみれば、疑問だ。
 いや、十分だろう。贅沢者め。
 たとえ今は檻の中にいたとしても、毎日、飯は食わせてもらえるわけだし。毎日、財布の中身に頭を悩ませる必要もない。今度、本も出版されるらしいし。
 そんな人生を送れるやつは、ふ、と急に腹の奥から込み上げてくる、叫び出したくなるような、なにかでっかい塊が出てきそうで出てこない気持ち悪さに耐えて、布団の上でのたうち回る眠れない夜を知らないだろう。この先、経験することもないんだろうな。

 で、結局、ヤツはいったい何がしたかったんだろう? 
 
 色つきの雨のせいで世の中が変わったっていっても、相変わらず、紫色の戦車は走り続けているし、ミサイルをバンバンぶっ飛ばしている。夏が殺人的に暑いのも変わらない。本気で困っているのは俺みたいな底辺のやつで、苦しんでいるのは、しゃべれない野生の生き物だけだ。それも前と変わらない。
 ろくでもねぇが、世の中って、そういうもんだ。ずっと変わらない。だから、俺みたいな何もないやつは、世の中の隙間を這いずって、ない頭を悩ませながら、何にもなれないまま生きていくんだろう。たぶん。自分の望むことなんてわからないまま、野垂れ死ぬまで――そうやって生きていくんだ。たぶん。

『僻みっぽいオトコって多いよねぇ。特に、おっさん。わざと大物ぶった言い方とかしてさ」

 不意に思い出した。昔、一瞬だけ付き合った女だ。他の女とは違う見方をする、ちょっと変な女が言った言葉だ。

『でも、僻むのってさ、なんか小物感あふれてない? いかにも雑魚キャラ的な感じで。世の中不公平なのは当たり前なんだからさ、自分からわざわざ、雑魚キャラですぅって主張しなくてもよくない?』

 ケラケラと笑い飛ばす声が、耳の奥から聞こえる。
 ああ、あの小さなトゲの生えた柔らかい肉に、もう一度包まれたいと思った。
 紫に染まっていない中途半端に太った月が、雲のない濃紺の空に浮かんで見えた。