いい写真の話 その4 撮る側の話

こんにちは、GOEです。

いい写真の話、その4。写真を撮る側の話を書いているうちにどう書くべきかごちゃごちゃしてしまい、気がつけばしばらく更新できずに今に至ります。

今もまた下書きを全消去してのイチから書き始め(笑)
というのも、写真を撮る側の話を書こうとすると、自分のことと、客観的な部分とがごちゃまぜになってしまい、しっくり来る文章が全然書けない…。

一応、今回は私が撮る側について自分以外も含めた全体像として書いたつもりです。
写真を撮る人は何を考え、何処が見るだけの人と違うのかということが伝わればいいなと思います。


写真を撮る目的といい写真

写真を撮る人には写真を撮る目的がほぼ確実に存在します。

意識しているかどうかに関わらず、どんな人でも写真を撮るという能動的な行動をする場合、そこには必ず理由があると私は考えています。
例えば、今の時代、一番身近なところでスマホのカメラでメモ代わりに写真を撮るのも、メモとして残したいという明確な理由があるし、なんとなく夕日が綺麗だなとスマホでパシャっと撮ってただけでも、その風景が綺麗で写真を撮りたいと思ったという理由がちゃんと存在しています。

一応、この記事の主旨としては写真を撮る側の人とは、趣味や仕事などある程度拘りを持ったり、好んで、日常的に写真を撮る人を想定して「撮る側」という言葉を当てていますが、写真を撮るという行為自体はどんな人でもそこに動機が存在するはずなのです。

さて、そこでです、写真を撮る側にとってのいい写真について考えると、この「撮る目的、理由」と密接に関わっていることが分かります。

例えば上の例のとおり、メモとして写真を撮ったとしましょう。では、あなたがそのメモ写真を見た時に良いと思う条件はなにか。
それは、メモとして必要な文字や図などがブレずにちゃんと写っていて後から見た時に参考になることではないでしょうか?
もしも、メモを参考にしようとしても何が書いてあるのか分からなかったら写真を撮った意味が無いですし、そしたら撮り直しますよね。

偶然見た夕日が綺麗でスマホを向けた時でも、写真に自分が撮りたいと思った”綺麗”が写っている写真がいい写真になるのではないでしょうか?
仮にこの時に、夕日よりもその手前、一緒にいた友人や彼氏彼女の表情を撮りたいと思ったのだとしたら、夕日が綺麗で手前の人物が真っ暗な写真よりも、ちゃんと人の顔が写っている写真の方がいい写真になるかと思います。

このように、写真を撮りたいと思った理由に対して、それを満たす結果になった写真が、写真を撮る人にとってのいい写真となるのです。

そして、もう一つ、私自身この記事を書いていて気づいたのですが、写真を撮る人の決定的な思考があります。


自分が良いと思った瞬間は自分にしか絶対に撮れない

私も普段ほとんど意識していませんでしたが、おそらく写真を好んでやる人というのは、無意識にでも多かれ少なかれこう感じて写真をやっているのではないかと思います。

前回、写真を見る側の話の中で、興味ない写真を見せられた場合、撮った人の視線の覗き見としての見方をすると少し面白いかもしれないということを書きましたが、これを撮る側の視点で言えば、自分が良いと思って撮った写真は他の誰の視線でもなく、自分自身の視線ということになります。

街を歩いて見つけた良い感じの影、人や車の並び、風景など、自分が写真に撮りたいと感じた時に写真にできるのは自分しかいないのです。
その時の状況、影や雲の形や物の配置などはもう二度と同じになることはないので、どんなに写真の技術がある人にお願いしたとしても、その瞬間は後からは撮ることができません。

夕日が綺麗で写真にしたいと思ったのなら、究極的には自分で撮るしか無い、その時、そのタイミングの綺麗さはその場で見ている自分にしか撮れないのです。


しかし、どんなに自分にしか撮れないのだと言ったところで、実際問題として夕日の写真をネットで検索すると自分の写真よりもいいと思える綺麗な写真がたくさん見つかるのではないでしょうか?
写真を始めたばかりでも、特に拘り無くスマホで手軽に撮るだけでも、その人の写真はその人にしか撮れないはずなのに、他人の写真を見るとあれ?なんでこんなに違うの???と思うこともあるのではないかと思います。

自宅の窓から見える綺麗な夕日はそこに住んでいる自分にしか撮れないかもしれないけれど、単純に綺麗な夕日の写真なら自分の写真よりも他人の写真の方がいい写真に思えてしまう。
あれ?自分も夕日が綺麗だと思ってカメラを向けたし、その瞬間は自分にしか撮れないはずなのに…。

実は、ここで問題になるのは、カメラの性能!スマホなんかじゃ駄目!…と言うことではなくて、撮る人自身の写真の見方なのです。
もちろん、カメラの性能差も無いわけではないのですが、それ以前に、写真を撮る人が写真を撮るために持っておいた方が良い視点があって、そこが初心者や普段写真を撮らない人との大きな差として写真に現れていると思います。


自分の写真にどれくらい満足できるのか

何度も書いている通り写真は見た人の好みです。
写真を撮りたい理由があって、実際に写真を撮って、撮れた写真を見て満足できれば、それでOK。他人がその写真はつまらないと言っても他人の評価を目的にしていないのであれば自分が満足できればそれでいいと思います。

ここで、では、あなたは自分で撮った写真にどれくらい満足できていますか?ということが一つの問題として上がります。

上の例で言えば、夕日の写真を撮ったとして、その時あなたが綺麗だと思って撮った夕日は写真でどのくらい表現できて、それを見返した時にあなた自身はどのくらいその写真の夕日を綺麗だと思えるのでしょうか。

「すげぇ綺麗に撮れた!大満足!」となればいいし、「取り敢えず夕日は写ったからOK」と思うのも全然アリ。
「夕日は写ったけど、実際今見ている風景はもっと綺麗でなんか違う」と思うかもしれません。
「夕日が全然綺麗なオレンジにならない。カメラ買ったのになんで?」ということも良くある話。

気に入らないからもう一度撮り直すのもいいですし、十分撮れたから満足でもいい。思った程良くないけれど、まぁこんなもんかとそこでOKにするのも自由です。

しかし、この自分の写真とネット検索や雑誌で見た他人の写真を比べた時に、他人の写真がどれも凄くいい写真に思えて、なんでこうも違うのかと感じたとしたらそれは自分の写真がまだ自分自身が満足行くレベルになっていなかったということです。

まぁ満足なんて言い方をすると、私自身も未だにそう満足できる写真なんて撮れやしないのですが、それでも写真を始めた頃に比べれば幾分マシになったと思います。

私が初心者の頃と何処が変わったのかと言うと、カメラの設定等の知識の部分もありますが、それよりも次に書く内容の方が大きかった気がします。


撮る側の人間は写真を見るときも撮る側の視点で見る

写真をやる人間というのは、他人の写真を見る時も撮る側の立場になって見ていることが多いです。

例えば、東京タワーの写真が一枚あったとして、普通に、あー東京タワーだねぇとはなりません。

自分ならどう撮るかを気がついたら考えています。

「あー自分なら縦位置で撮るな、より高さが強調できる」などと写真より上手く撮れそうと思うこともあれば、「なるほど、こういうアングルもアリか…」と他人の写真から良い部分を盗もうとすることもあります。


また、自分の写真を見返しても、やはり考えるのは次はどう撮るか。「あーよく見たらちょっとボケすぎだな、設定をこうすればよかった」などと自分の写真を見て撮る時のことを考える。

私だけがそうというわけではなく、おそらく写真をやっている人は程度の差こそあれむしろ大多数がこういう思考回路をしているのではないかと勝手にですが考えています。

見た写真に対するダメ出しというのは、その写真が自分の好みに合わない部分がどこなのか分析しているということで、自分の好みを分析的に考える事になっていると思います。

これが非常に重要で、自分の写真を見て駄目だと思ったのなら一体何処が違うのか、他人の写真を見て良いと思ったのはどの部分なのかを具体的に考えると、次回、自分が撮るときに実際にその点についてより自分の満足に近づくのです。

撮る側に必要な分析的な目

構図や露出、色、ボケやブレなどの写真の要素、そこに注目して分析的に写真を見る。これは写真を撮る側の人間としてむしろ持っていないといけない目ではないかと個人的には思います。

深く写真をやろうと思うとどうやってもここは外せません。

他人が撮った写真を見て、その写真がどういう要素で出来上がっているのか、それを何処まで見抜けるかということは写真を撮る側の感覚として重要だと私は思っています。

簡単に言うと、何も言われずにただ一枚写真を見せられただけで、カメラの設定がどんな数値か、撮影者はどんな意図で撮ろうとしたか、そしてそれに成功したのかどうかなどを写真の絵柄から読み取れるかどうかです。

ただ、一つ注意したいのは「いい写真の話 その2」で書いたとおり、カメラの設定や使用した道具など、一部の要素だけで写真の良し悪し自体は決まりません。

写真を撮る人にとっても、撮らない人にとっても、写真の良さは好みの問題、好きか嫌いかです。
もちろん、設定を判断材料にする人が何処かにいてもそれはその人の好みということにはなるのですが。

とにかく、写真から分析的にその要素が読み取れるということは、自分が写真を撮る時に完成する写真の予測が立てられるようになり、より撮影時にコントロールできる幅が広がるのです。

コントロールできる幅が広がると、より自分の思いどおりの写真が撮れるようになるのです。
料理で言えば、レストランで食べた料理の隠し味が判別できる舌を持っていると、今度自分で料理するときにレパートリーが広がったり、味の参考にできるので、より自分好みの味も作れれば、また誰かの要望に答えて相手の好みの味付けにもバランス調整が効くようになったりするのと同じかもしれません。


こう書くと、写真はその瞬間の偶然性も含めて良いものだと思っている人も中にはいるかと思います。私もそう思う部分はあります。
しかし、これについてもやはり写真を見て読み取る能力というのは重要で、例えば、通りを歩いている人が偶然写真に写り込んだとしても、その人がブレずにピタッと止まって見える写真になるのか、移動している分ブレて写る写真になるのかはカメラの設定や扱い方で決まります。

つまり、写真に写り込む偶然性の見え方や程度というのは撮影者の側でコントロールできる部分があるのです。


分析して分かった要素を撮影時にどこまで重要視するかは撮影する人各々の自由。写真の良し悪しとは別に、撮影者の撮影スタイルの好みという問題です。
ですが、こういう目を養っておくと、それを分かってて敢えて使わないということ含めて、より自分好みの写真を撮れる可能性は高まると考えています。

一つだけ注意というか必要なことを書いておくと

上記のように写真の要素を分析して、この写真はこういう設定で撮られたものだと判断できるようになるには、基本的なカメラの知識が必要になります。

概ね、絞り、シャッター速度、ISOの関係性やそれによる写真の絵としての変化。
最低ここは抑えておかないと分析のしようがないです。
例えば絞りを開けるとボケるようになるとか、ISOを上げすぎるとノイズがとか。

この撮り方や技術については初心者向けとして完全に自論でいずれ書くつもりなのでその時にまたグダグダやりたいと思いますが、まぁネットで検索すれば出てくるので、理屈を把握してその上で写真を見てどうなっているのか考えると参考になると思います。


他人の写真をいい写真と感じることについて

自分の好みの写真がいい写真。好みは自分が撮る理由に基づく。より好みに近づけるために写真を分析的に見る。

それはいいとして、でも他人が撮った写真でもいいと思う写真はたくさんあるし、それと自分が撮ることとはあまり関係ないのでは?という部分について最後に書こうと思います。

あくまで自論(っていうかずっと自論だけど)ですが、私は写真をやる人が他人の写真を見る時には大体以下の2つの分類と2つの判断基軸を持っていると思っています。

①自分の写真と同じ軸で他人の写真を見る

②自分の写真とは別軸の写真として他人の写真を見る

この2点に加え

・優れた点が見られるかどうか

・その他人の写真が思想として許容できるか否か

おそらくこの2つの部分がポイントになっていい写真かどうかは判断されているのではないかと考えています。

報道カメラマンが他人の写真を見るとして、同業者の報道写真を見る時は①ですし、報道とは無関係の風景写真などを見る時は②として見ているのではないでしょうか。

趣味でも同じで、自分が好きでよく撮っている被写体とは完全に別軸で見る写真のジャンルというものは誰しも持っているし、逆に被写体は違うけれど同一線上で語れるジャンルというのも存在していると思います。
子供とペットを撮るのは似ていたり、自然風景と都市の夜景も見た目は違えど撮る技術的な部分では共通する点が多かったりするなどがそうかもしれません。


その上で、他人の写真をいい写真と感じるかどうかについては、まず第一にその写真に優れた点を見ることができるかどうか。

②のように自分の普段の写真とは別軸にあっても、写真を分析的に見ることは可能なので、写真をやってそういう目を持っている人ほど、畑違いの写真でも技術の高さや撮影者の視点など、単純な絵としてだけでなくその裏の撮影者の腕にも気がつくのではないか、そういう部分も含めいい写真と判断することもあるのではないかと考えています。


ただし、それら全てを加味しても、やはり写真を撮る人間についても見る側になれば好みはあるし、むしろ自分でも写真を撮るのでその写真に対する拘りは強い。
最後の最後、まぁむしろパッと見た時の第一印象ではっきりするかもしれませんが、その写真が自分の許容範囲内かどうかがいい写真かどうかの判断基準に大きく関わってきます。

写真を撮る人は特に、写真に対する考え方やその思想も強い傾向があると私は思います。

例えば、ストリートスナップでもいわゆる隠し撮りのような撮影方法は受け付けないという人もいれば、一部を除きそのような手法を取っても許容されるという考えの人もいます。

加工の話はまた別でちゃんと書くとしても、そういうデジタル処理が何処まで許容できるかは個々人の感覚の部分もあります。

自身の好きな写真のジャンルや思想によって、これらの写真に何処まで認めるかのような許容範囲が異なるので、技術的には凄く高いことが分かって、優れた写真だと思っても、思想の違いから受け付けない、好きじゃない写真というものは写真を見るだけの人にはあまり無い、撮る人独自の視点のような気がしています。


いつもどおり長くなりましたが、だいたいこんな感じではないでしょうか。
それこそ、一つのジャンルに絞って書けば当てはまらないことも多々あるかと思いますが、写真を撮る人と敢えて一括にすればそう外れてはいないのではないかと思います。

さて、長くなるとどんどん文章がおかしくなっていって自分でもよく分からなくなってしまうので今回はここまで。
次回は偏見も多分に含むかもしれないけれど自分が撮る上で思っていることを書けたらと思います。



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