YMOが「テクノポップ」と言われだしたのはいつか
YMO=テクノポップになったのはいつなのか、は関心事の一つです。今の人からすればそんなところに疑問は持たないと思いますが、当時はYMOは細野晴臣のニューグループとして、最初はフュージョンとか、ディスコとか、そんな扱いを受けていました。そこに、YMOは「テクノポップ」である、と決まったことで、その音楽の新規性を皆が受け入れられるようになり、共有できるようになったと言えます。新しい音楽には新しい言葉が必要でした。ではテクノポップと言われだしたのはいつか?
とりあえず現時点でわかっているところをおさらいしましょう。まず言葉から。
「テクノ・ポップ」初出再考
阿木譲が関西で編集していた音楽誌『rock magazine』の15号=1978年8月号のディスクレビューページ、クラフトワーク『THE MAN MACHINE 人間解体』の紹介で使われたのが初出です。見出し「テクノ・ポップ・ミュージックの先駆者、クラフトワークは又々凄いアルバムを発表した」と、本文末「テクノ・ポップ・ミュージックの先駆者、クラフトワークのこのアルバムはほんと凄い」。書き手は無記名ですが編集長の阿木譲のようです。まだ中黒が入ってますが、テクノロジー・ポップという意味ではそのまま。
『rock magazine』はこの号まで隔月発行だったので、8月号の場合、1978年8月1日発行と書いてありますが、実際の発売日は1978年の6月頃かな~?と思います。
で、ですね。最近気づいたんですが、海外のパンクファンジン『slash』の、1978年7月号なんですけど。
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2001年以降に雑誌等に書いた記事を全部ここで読めるようにする予定です(インタビューは相手の許可が必要なので後回し)。テキストを発掘次第追…
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