見出し画像

通訳者、およそ半年病院が自宅となる~ネフローゼ症候群(小児)という病気~

こんにちは、ブライトウーマンワールド代表・通訳者の高瀬です。キャリアを振り返るブログを書く上で避けて通れないこの話題。今回は、ネフローゼという病気と付き合った過去について振り返りたいと思います。と言っても、私が発症したわけではなく、発症した本人は長女になります。

ネフローゼ症候群という病気

ネフローゼ症候群という病気を聞かれたことはありますでしょうか?私は長女が発症するまで聞いたことがありませんでした。

まず、どんな病気かというと、尿中にタンパクが大量に出て血液中のタンパクが減り(低たんぱく血症)、その結果、むくみ(浮腫)が起こる疾患です。大人のネフローゼもあるとのことですが、小児ネフローゼは年間10万人に2人~5人の子供が発症する病気で原因は不明です。だいたい3歳-6歳の頃に発症し、2/3が男児、1/3が女児とのこと。発症者の90%がステロイド投与で症状は落ち着きますが、70-80%は再発すると言われています。その中でも、発症(初発)から半年以内に2回、もしくは任意の1年間に4回以上の再発を繰り返した場合、頻回型ネフローゼ症候群と呼ばれ、長女は初発から半年以内に5回再発しました。(小児慢性特定疾患にも認定されています。)

日常生活を送っていて少し疲れたら尿たんぱくが出る、という方もいらっしゃると思いますが、ネフローゼと診断されるのはタンパク+3が3日以上続く状態の時に診断されます。

最初の異変

2017年初夏頃。なんと表現したらよいか分かりませんが、『手足がずっしりしてきたな』と思った時期がありました。なんだか長女の体つきが変わったのです。数日で体重が一気に500g~1kgくらい増えた時がありました。「もう4歳だし、そんなもんかな。」とちょっと不思議に思いながら過ごしていました。実は、それがネフローゼの特徴の1つでもあるのです。体内に余分な水分が溜まっている証拠。

その後、風邪を引き発熱、熱が下がるとなんだか目の腫れが顕著になりました。ただ、朝起きると腫れているものの、夕方保育園に迎えに行くと少し収まっているというのがしばらく続き、「早く寝たら、明日は治まってるだろう。」と思うものの、なかなか症状は改善しません。これこそが浮腫なのです。体に溜まった水分が、横になる夜のタイミングで目の方にきて、日中活動することにより、その余分な水分は手足へと移動していたのです。余分な水を出そうにも、腎臓機能がおかしくなっているので本人にはどうすることもできません。

ネフローゼと診断されるまでいろいろあったのですが、2017年8月7日、発熱があったのでかかりつけ医に行き、目の腫れを相談すると、即尿検査からの入院となりました。診断の時に、「この病気は忍耐がいる。」と忠告され、ものすごく身構えたことを覚えています。

病院と家との往復の生活

かかりつけの先生に紹介してもらった市民病院での生活が始まりました。とりあえず、2か月の入院ということ、原因不明の病気ということ、原因不明にも関わらず、私の日ごろの行いが悪くてばちが当たったのでないか等いろいろ考えてしまい、精神的に落ち込みました。また、両親からも「子供のそばにいてやった方がいいんじゃないか?」という意見があり、何があっても仕事は続けると思っていた気持ちに蓋をすることにしました。「辞めるしかない。」と。

数日後、状況報告と辞める宣言をするために当時働いていた生命保険会社さんに出社すると、思いがけない言葉が。「週1回とかの出勤でもいいので、辞めない方向で考えてみて。」と提案くださいました。0か1ではなく、0から1までのグラデーションの中でベストな選択をしていく、そんな考え方をもてるようになった、私のキャリアに大きく影響を与えてくれた1言でした。(この辺りの話は『通訳者、保育園を探す~前編~』にも少し書いています。)

そして、病院と家とを往復しながら、通訳者が必要となる対外的にも重要なミーティングのある木曜日だけ出社することになりました。長女の付き添いは、夫と分担し、私が日・月・水・木曜日の夜に病院に泊まり、夫が火・金・土曜日を担当するというルーティンが始まりました。木曜日の出社のため、病院に自転車を持って行きました。木曜日の午前中に義母が来てくれて付き添いを交代、私は自転車に乗って最寄り駅まで行き、出社するという流れです。

実は、私は人に何かをお願いするということが苦手で、それまでも義母に長女の子守をお願いすることはありましたが、毎週というような依頼の仕方をしたことがありませんでした。なぜ苦手だったのか、今考えると理由はいくつかあります。まず、依頼して断られると精神的ダメージを受ける、OKしてもらっても自分の思う通りに長女を見てもらえるか分からないという少し『control freak(なんでも管理したがる狂気沙汰)』のところがあったと思います。本質的なところで他者を受け入れて対話する能力に欠けていたのだと思います。あと、私が働く理由として背景にあったのが、お金というより、有能な通訳者になりたい=自己目標を達成することであり、だれかに何かをお願いする場合は、自分が本当に困ったときでないと申し訳ない、依頼するべきでないという思いがありました。なぜなら、そういった依頼は自分のわがままでしかないと。

それが、長女の入院をきっかけに少しずつ変わり始めました。頑張れば、全部自分で抱えきれなくもないけれど、何せ長期戦の入院であり、私は次女妊娠中でした。この家族の危機を乗り越えるためには、母親である私が潰れるわけにはいきません。好きな仕事を続けることが私とっては精神的バランスに繋がりました。今でこそそんな風に振り返られるようになりましたが、当時はただ必死です。退院して元の生活に戻れる日をひたすら待ち望んでいました。

入院期間2ヶ月後の10月、予定通り退院しました。が、それは新たな試練の始まりでもありました。

再発の繰り返し

8月から2ヶ月だけ入院を頑張ればいいと思っていたら、退院から3週間ほどで長女は体調を崩して発熱。風邪を引くなどして自己免疫が働く時、ネフローゼを持つ子の免疫は暴走して再発につながると言われています。退院する時にも、風邪を引かないように気をつけてね、と念を押されました。(風邪引くのを注意して引かないですむなら、そんな楽なことはない。何したらいいねん😡と正直もやもやしていました。)それがあっという間に風邪を引き、再発したのです。また入院です。

その後、小児の腎臓を専門とする病院では初発の時だけ入院が必須で、しかも、3週間くらいで終わるということを知りましたが、当時は最初に担当してもらった市民病院の先生しか知りません。系列の病院から情報を取り入れてくださったりと頑張ってくださいましたが、もっと早く専門の先生を探すべきだったと悔やまれます。というのも、その先生の指導方針は再発=入院=ステロイド治療のため免疫が下がる→他の感染症に罹りやすいとの理由から、長女は入院すると個室でのほぼ軟禁状態のような生活になっていたのです。友達と遊びたい盛りの時期に、何度も人との関わりが遮断されてしまいました。

仕事をどうするか、また悩みます。が、自宅から長女の病院へと向かう道すがら、車を運転している時にふっと思いつきます🚗義母、母、叔母など、これまで付き添い交代を申し出てくれていた人たちをもっと巻き込み、保育園通園に最低限必要な時間(月68時間)だけは働いてみよう、と。つまり、1週間の内、1日8時間会社にいる日もあれば、2時間しかいない日があるなど、私の代わりに長女に付き添ってくれる人の都合に合わせながら、就業する時間を選ばせてもらえないか、という打診を会社側にしました。上記のとおり、もともといろいろと調整をしてくださる土壌があったので、すぐに承認していただけました。私の方も、どの日に何時間会社に行くのかというだいたいの予定を事前に提出し、何かあれば逐一報告することに努めました。
ここでも、0か1ではなく、グラデーション手法が役立ちました。これを産休に入るまで続けました。

次女の出産

長女の状況は相変わらず芳しくなく、命に別状はないものの、再発は続きました。次女もお腹の中で状況を察したのか、逆子が治らず帝王切開を行うこととなりました。通常であれば、できるだけ逆子を直して普通分娩を目指すところですが、長女の調子がどうなるか分からない中、いつ分娩になるか分からないより、この日に出産と決めてしまいたいというのが正直なところでした。
結局、長女の再発は、次女出産直前、直後、1ヶ月後など繰り返し、次女は生後1週間で義母に預けられ、私は自分の退院とともに長女の病院へ。その直後、夫の東京への転勤が決まり、ついに転院を決意します。それが転機となりました。

内服しながら、保育園に復帰

2018年の3月中旬に、何度目か分からない再発を起こした際、たまたま新しい薬(免疫抑制剤)の内服に向けて転院先に入院していました。これからまた2か月か⤵と思っていると、退院は数日遅れるもののほぼ予定通りにできるよとのこと。先生の言葉が神の声のようにも思えました。しかも、その翌週には保育園にも行ってよいとのこと。専門の先生のもとで治療してもらうのはこんなにも違うのかと感動したとともに、これまで代替策を考えてこなかった自分に腹が立ちました。

その後

転院してから2021年5月現在に至るまで、幸い長女は再発していません。再発を防ぐため、まずできるだけ風邪を引かないことを目指しました。例えば、長女がまだ保育園に通っている時は、毎晩20時にはお布団に入ることを最優先事項とし、1日の予定を組みなおしました。次女出産後、4ヶ月からちょこちょこフリーランス通訳の仕事を受けていましたが、夜の案件は受けず、大阪の中心である梅田を17時には出られる仕事を選びました。また、20時就寝を目指して動けるように、ヘルプに来てくれていた義母や叔母に自分の方針を伝え、各人の都合を確認した上で協力をお願いするようにしました。

ネフローゼと付き合っていくことは、最初にかかりつけのおばあちゃん先生が仰ったように『忍耐』のいるものです。長女はたまたま免疫抑制剤との相性がよかったのかもしれません。私があれがいいかもしれない、これがいいかもしれないとやってみたのが功を奏したのかもしれません。何が良かったかは分かりませんが、長女がネフローゼになったことにより、私は捨てないといけないもの(何を最優先にするか)、人を巻き込んで対話する、0か1ではなく第3の選択肢を受け入れ、それを探り実践する、というビジネスにも生きることが少しずつできるようになりました。ネフローゼにならないで済んだのであれば、それにこしたことはありません。でも、ネフローゼを発症したことで学んだこと、義母や叔母との絆は私たち母娘にとって『かけがえのないもの』になっています。(*実母の名前があまり登場しないのは、私が小3の時に生死をさまよう事故に遭いました。頭を強く打ったため片目の視力を失い、情緒が不安定なため、あまり甘えることができないのです。それもあり、なんでも自分で解決しようとしていました。)

もし、今、ネフローゼに関して情報がない、今後どうなるのか不安で分からないという方がいらっしゃれば、ご連絡ください。気持ちをシェアできるだけで楽になるかもしれません。私も当時、特に次女を出産した直後、1人病室で不安に苛まれていました。ネフローゼは『忍耐』はいるけれども、付き合っていける病気です。無理はしないけど、前を向いていきましょう💛

終わりに

上記のような経験から、特に女性のキャリアはしなやかに見つめることが大事と考えています。男性視点で作られた既存の0か1かの選択肢ではなく(0が1にうまく当てはまるのであれば、それもありだと思います。)、自分に最適な0から1の間のどこか。そして、その選択肢はずっと同じではなく、自分の考え方や家族の変化によっても変更できる選択肢。それがもっと簡単に叶う世の中になってほしいと思うし、女性自身・私自身も諦めることなく、貪欲に追及していけたらなと思う今日このごろです。

本編に関連した記事👇


よろしければサポートお願いします。サポートは世の中のコミュニケーションがよくなるための活動に使わせていただきます💛