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29 勝たないといかんのかね。でも負けたくないよね。

論破という言葉が自分のなかに入ってきません。マウントとも。昔からおそらくこういう心性はあったと思うのですが、特にここ10年くらい、15年くらいかな。キツくなっていないでしょうか。ネットで匿名の発信者が強くなり始めてから、急成長したように思います。よくこんなことを見つけてくるよねえ、というところで攻める。責める。相手を黙らせたら勝ち。こわい。

ラグビーのノーサイドみたいに、それが終われば終わりじゃなくて相手を引きずり下ろすまで終わらないのです。権威に対する反骨心が暴走している。おとなしい学校でケンカが起これば異常なほどに生徒たちが興奮することがあります。おそらくカタルシスなのだと思います。仮託しているわけです。投影かな。そこまでする必要あるか? と思うまで相手をやっつける。真っ白い顔で。本当に興奮した人間は顔が紅潮しないのです。顔面蒼白になり、不気味な姿になっていく。そういう姿を望まないながら少なからず見てきました。Twitterの応酬を見ていてもお互い真っ白い顔でやっているのだと思います。

「失敗してもいいよ」というのは強者の言葉である、というのは僕はつくづく言っています。みんな失敗したくないのに、それを許容する姿勢を見せている側。多くは大人。すでにそこに権威とそれに屈する側の構図があるのです。

失敗という言葉じゃもう受け止めきれない時代になりました。ネットを見ればすでに誰かが試していて、誰かがすでにそれを解決済みです。人間のエラーっておそらくほとんど同じで、でも自分の立場になるとそれが怖くて仕方がない。今の子どもたちは擬似的に成功できるし、擬似的に失敗もしている。リアルな世界で本当の失敗をしないために、そのトライアンドエラーを繰り返している、と僕は見ています。

論破の話。確かに痛快です。白熱するほどおもしろい。これも話の内容より外的な要素がクローズアップされがちです。中身は「矛盾している」「支離滅裂」という言葉さえあれば集約されているように見えます。結論づけるように一言。これもある種の論破です。で、そういう人たちはやはり集まっていく。

負けたくない、をいかに健全に育むか。失敗(という言葉もいずれ人には使ってはいけない言葉になるんじゃないかな)を受け止められる。そういう大人にどうすればなれるのかなと、よく考えます。家庭が、地域が、友人たちが昔ほど教育力というか影響力を持たなくなりました。自分の好きなものだけにアクセスできる子たちが、オオヤケの場でトチることは致命傷になってしまう。そういうふうに思います。

僕は負けるのが嫌いです。でも負けず嫌いじゃなくて、負けても負けるのが嫌いです。言い古された言葉じゃなくて、こういう僕の本心を伝えるために言葉を磨いています。「ピンチはチャンス!」とかいうフレーズなんか大嫌いです。誰がそんな言葉聞くかえ、って。伝えるプロならそれじゃダメ。同じビールでもホテルで飲むビールは高いですよね。

人を踏みつけにして勝つのじゃなくて、同じお金を稼ぐのでも人の幸せの対価として。子どものスピードに負けたくない。子どもたちにも負けるのがイヤです。

スギモト