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映画『紅の豚』

 誠に勝手ながら、宮崎駿監督は魅力に溢れた"先人"だと思っている。まだ生きて作品を発表し続けている人に使っていい言葉なのかわからないけど、既に駿監督以降数世代のほとんどの人に渡って当然のようにDNAが組み込まれている。三鷹のジブリ美術館へも何度かいった。展示されている一つ一つからカフェの価格設定に至るまで、あくまで"観る側"を楽しませる意識に溢れた「ジブリらしい」を具現化した素晴らしい場所だ。
 ところが僕は特段宮崎駿ファンというわけでなければ「ジブリだからとりあけず観る」も備わっていない非国民というかたぶん変態なので、かなり大人になってから「こういうものなのか」と割と冷静に受けとめた部分が少なからずある。もちろん金曜ロードショーでフィルモグラフィーがリサイクルされる度にテレビは点いていたので、非常になんとなくではあるものの横目に視界には入っていた、というかんじだった。
 日本国民にとってジブリや宮崎駿は特別な存在で、多くの人が「決して捨てられないオモチャ」のように終生大切に、我が子へも観せたりしながら受け継がれていくのかもしれない。その辺はディズニーと価値が似ている。
 ところが駿監督の作品は、東洋の神秘(死語)とでも言おうか、要は"解せない箇所"の応酬。映画の冒頭から終わりまで画面にかじりついていても、意味のわからないところ、ついていけない展開に頻繁に突入する。だから僕は『ラピュタ』と『ナウシカ』は何度もテレビで観ているはずなのに、内容が混ざってしまっている。「どんな話だったか」人に説明することができない。ラピュタが飛行石を手に入れて王蟲の周りを旋回しながらヒュンヒュンやってる…みたいなことになってしまう。大学の図書館にもレーザーディスク(ロストテクノロジー)が揃っていたので観返したりもしたけど、結局『ラピュタ』と『ナウシカ」の区別はできるようになっていない。そもそも公開年の順番でどっちを先に書くべきかもわからない。
 そんなわけで、先述の通り非国民な僕だけど、『紅の豚』(1992)は少年の頃、胸を熱くしながら観たのを憶えている。ポルコにかかっているよくわからない呪い、赤い飛空挺のカッコ良さ、音楽の合致具合い。こういうデコボコな言葉で表現したくなるような、河原でゴツゴツした変わった形の石──それも岩との中間くらいのサイズで、両親に見つからないように帰りの車の中まで持ち込めるか心配なくらいデカいやつを見つけたような、そんな感覚だった。
 あとから知ったところによると(有名な話だけど)駿監督の趣味全開で、エンジン音をはるばるエーゲ海?カリブ海?まで録りにいったんだとか。駿監督のあのニンマリ顔が目に浮かぶ。

 僕は大人になってようやく「ストーリーを追いかける」以外の物語の楽しみ方を知った。そうなってみると、駿監督の、すべての童心のためにまず印象的なシーンからつくって、あとから話を繋げていくつくり方が如何にフィットした発明かわかるような気がする。しかも、ほんとうはもっと話をまとめることもできるはずなのに、それって要するに辻褄合わせの作業でしかないので、もっと深い根っこの部分、「なんだかわからないけどそこだけよく憶えてる」ようなシーンが一つでも増すように、お馴染みの公開延期を重ねながら奮闘しているのではないかと想像している。
 『紅の豚』はジブリ作品の中でも人気が低いようで残念だ。否定的な意見に目を通してみると、僕がジブリ作品群に長らく抱いていた不満(というかとりつくしまがなかった)と同じような意見が並んでいて、なんだ、やっぱり僕がズレてるだけか、と妙に納得してしまった。

 ただ"かっこいい"と"好き"を追求している映画。そして映画の(アニメの)面白い瞬間を探究している宮崎駿監督。どちらも濃密に揃っていて、わかりやすい教訓めいたものは提示されないけど、純粋に楽しい時間を過ごすことができる。
 昔観てあんまり面白くなかった印象を持っている人で、暇な時間になんか観たいけどなんにも思いつかないとき、結構前向きにお勧めしたい一作。


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