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散歩『スマホを持たずに闊歩する』

 日常から離れようとして、南の島や美しいネオンに塗れたラグジュアリー空間へ赴く趣味はない。そもそもおそらく誰しもに備わる、日常から離脱せんとする厳然たる欲求のようなものは、なんなのか。どんなに生活が充実していても、失われることのない欲求。
 ほとんどの人の場合、日常的な思考様式は否定的な方向に働くものだ。事物や現象を訝ったりともすれば拒否する衝動に駆られる。そうすることで「よくわからないもの」を排除し、既定路線を歩もうとする。それがほとんどの人にとっての「日常」だからだ。例え「よくわらないもの」=「違和感」の中に己の行く末を案ずるような事象が潜んでいたとしても、人類の概念がもう少し短絡的だった近代(だいたい十七世紀〜)以前のように、せめて気に留めておくことができればいいけど、それも難しい。大切な想いも苦渋の決断も、日常の中を流れていく。

 日常を脱すると大義そうにいっても、実ははそんなに難しいことではない。と僕は思う。日常とは己にとっての「ふつう」であり、自分自身の「通常」の状態を指す。自分が自分である以上、当然自己は日常の中に在る。要するに自分にとって"通常足りえている要素"そのものを揺らしてしまえば、たちまち非日常の不安定な力に覆い被さられる。とても簡単なことだ。それはあるときは道端で転んでいる人を助ける行為かもしれないし、ある場合では電車で席を譲るだけの些細な親切かもしれない。
 生活しているさ中、「これは日常」「これは非日常」などといちいち区別している人がいたら会ってみたいし、そんなことに拘るのは疲れないのかな、と思う。自分へのご褒美、くだらない毎日からの離脱、新しい明日への飛翔、すべて同じようなニュアンスの文句に聞こえる。冗句かと思う。こんな小学校の道徳の授業のような、近代にも至らない原始的な発想を下地に敷いて考えるのはレトリックについてばかり。まぁ事態は好転しない。

 日常が集約されている、日常を営ませてくれているスマホを自宅のテーブルの上に置いて、小銭だけを持って散歩へ出かける。玄関を出た瞬間、もちろんそれはなにも特別な瞬間ではないしきっとただ足が痛くなって帰ってくるだけのことなのだけど、それでも僕にとってはとてつもない非日常的体験となりうる。時計も地図も暇な時間にも、いつもの手立てがない。
 鮮やかな果肉の他には毒素を持つ植物や、強い異臭を放って存在を知らしめる青々とした草。自然の中へ足を踏み入れれば自然の中の個がある。そういう個を感じ、歩きながら知っていく。既製品の造花を集めても花束にはならない。グリーンカーテンも同じだ。遠目に見るとプリントされたような、平面なのかと錯覚するような均一性が不気味に見える。不揃いの個が一つの幹に向って縋っているように、一枚一枚の葉は事情が違っていなければならないし、一本一本の樹木、一つ一つの山はそれぞれまるで違う性質を備えてそこに在る。なのに僕たちは勝手に系統立てて要約し、概念化することで空気が抜けてへなへなになった「記憶」や「思い出」を持ってまた日常へかえっていく。それではちょっとしんどい。
 非日常に日常を持ち込まない。その方法をずっと模索している。だからなのか、散歩をするにしても、いつもほんとにただふらふら歩き回っているだけなのだ。まだ耄碌してるわけじゃないのに、困ったものだ。



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