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R.シューマン『ピアノ協奏曲』

 ロベルト・シューマンは僕の憧れであり、大切な支えとなっている。こういう人がいるから音楽はやめられない、の最上級で、ラスボスの一人だ。
 作曲家としての筆の力が革新的に優れていたかどうか、技術的な面では怪しい部分もあるけど、瑞々しい魅力に溢れた黄金期の作品群と晩年へ向かう陰鬱とした病苦の痕跡。すべてが素晴らしい作品とは言い難い、でもこの沸るような若々しさを嬉々として表現できる作品は、ロベルトの書いたものの他にそうあるものでもない。
 さらに彼は、現代では当たり前に発刊されている音楽雑誌の創刊者で(シューマンの刊行した人類初の音楽雑誌も引き続き発刊されている)寄稿された文章は今日に至って尚文庫本にもまとめられていて、その辺の本屋さんで手にとることができる。かのJ.ブラームスはその中で鮮烈に才覚を賞賛され、世に出た。
 著名な作曲家、つまり時代や場所を超えて親しまれるような作品を遺した人には、後世語り草になるようなエピソードが付きものだし、寧ろ極めて品行方正な家庭人足りえる人間が、わざわざ芸術などというものに寄りかかろうという間違いを犯したり(冒したり)しないのだろう。だから天才には才気溢れる作品とそこへ至る尋常ならざる──ほとんど狂気である、"特筆されるエピソード"を僕たちは勝手に紡ぎ出す。ロベルトも最期は不幸で、幸福だった。愛するクララの見守る中、これ以上の最期はなかったはずだ。そんな風に、勝手に思い込む。

僕の大好きなアラウの参考動画

 『ウルトラセブン』はウルトラマンのシリーズ屈指の人気を誇るので、パンドンの厭な金切り声が同時に聞こえた人もいるかもしれない。最終回、疲弊し負傷したセブンは史上最大の悪鬼と死闘を繰り広げるが、その背景でこのピアノ協奏曲の第一楽章がひたすら流される。物語の躍動を推進していた。子どもの頃(平成初期)ビデオで観たセブンの戦いと共に、強く印象に遺っている。
 その他人気の高い、聴いてみるとこれを読んでいる大体の人が知っているはずの他のピアノ協奏曲に比べ(例えばラフマニノフ第二番やチャイコフスキー、ベートーヴェン第五番『皇帝』など)、『セブン』がなければロベルトの協奏曲はもう少し地味な作品として位置付けられていたかもしれない。もうちょっと演奏回数が少なかったかもしれない。もう慣れてしまってこれを書き始めるまで忘れていたけど、終楽章に、後にブラームスにも受け継がれた拍子の錯覚の悪癖(僕は病気と呼んでいる)があるし。要するに、エンターテイメントもきちんと作用している。

 現代における古典音楽もリアタイでは流行に即したエンターテイメントだった。ロベルトはムーブメントを拡張すべく、文章を使った。彼の書くものは面白くて、架空の人物二人とロベルトの三人談義で評論を進めたりする。そういうほとんど小説的な読み物から堅い提言のようなものまで、彼の筆跡を辿ってみると、楽譜とは違う実感を得ることができる。
 シューマンは室内楽作品を多く遺した時期と本人の黄金期が重なっているので、本来の魅力はそっちに濃い。晩年は混沌としているけど、時々とんでもない作品が紛れ込んでいる。そういう意味ではバランスのとれたこのピアノ協奏曲は名作には違いないので、自ずと付き合いも長くなった。己が人生の折々で触れてきたこの作品が、そのまま僕の血肉になっていることと…願う。


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