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大谷晋二郎はオレにとっての大恩人だ

すでに四半世紀も前の1997年1月4日。プロレスラーとしてキャリア3年にも満たなかったオレが新日本プロレス・東京ドーム大会に参戦することになった。

メジャーvsインディー。

新日本プロレスと、当時オレが所属していた大日本プロレスの対抗戦。

インディーは業界をレベル低下に導く癌だとする新日本と、それに抗うインディーな大日本という図式。

まだ本名の田尻義博だったオレの対戦相手には当初、某選手が候補に上がっていると聞かされていた。そろそろカードが正式に決まりそうな確か11月頃だったか。あるスポーツ新聞の記者が非公式に

「某選手が田尻選手を徹底的に潰すと話していましたよ」

と伝えてきたのだ。まだメジャーとインディーの距離が天と地ほどあった時代。そうくるだろうと予想はしていた。なのでオレはこう答えた。

「某選手とボクが闘ったら絶対に向こうの方が強いです。だからもしそういう展開になったら、せめて某選手の耳を噛み千切ります。絶対に噛み千切ります」

本気でそう決意していた。それが記者にも伝わったのか、さらにはどこかにも伝わったのか、最終的にオレにあてがわれた相手は大谷晋二郎だった。

田尻義博vs大谷晋二郎

インディー育ちvsメジャー育ち

当時の新日本は、上から目線なメジャー意識の権化のような団体だった。そんな新日本に誇りを持つはずの大谷晋二郎が、四半世紀を過ぎたいま思い返しても間違いなくオレを引き立たせる試合を構築し引っ張ってくれた。体力的にも技術的にも、当時の二人の力量差ならば大谷晋二郎が一方的にオレを潰すことなどたやすかったはずである。それをそうはしなかったのは、プロとしてのあらゆる角度からの計算、さらには人間性ということだったのだと思う。

この試合がきっかけで、プロレス界におけるオレの知名度は一気に上がった。なので、大谷晋二郎はオレにとっての大恩人だ。オレを世に出してくれた大恩人だ。

安易な言葉は吐きたくない。だからせめて四半世紀前からずっと抱き続けている、心の底からの想いをもう一度いう。大谷晋二郎はオレにとっての大恩人だ。






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