まあ物語だからいいんだがいわゆる科学的な非科学な疑似科学的な設定が蔓延
漫画にはロジックとしては
それらしく見える科学的
といっているものがある
まあ物語だから空想だし
何でもいいやというのはあるが
エンタだし
けれど人の発想は世界を
作る基礎でもある
その根底にあるイメージは
価値観を束縛し
そしてそれらは
人の社会構成をそもそも形成も
してしまい私達ある種
認識の檻に狭めることも
あるわけだ
妄想だからいいやとか
そういう言葉もあるのだが
次第に世界はどこかの
児童文学者がいった
虚無に確かにむしばまれる
可能性も大きい
この疑似科学的なものが
何なのか考えてみるのも
意義深いと思える
ただのエンタ、そして夢物語として
捉えるなら別に空想は空想や
夢想となっていいのだが
そこに真実だと思った瞬間
いわゆる妄想の中に取り込まれて
いくのだ
まあそれも人生かもしれないが
まずもって重力という束縛から解放されたい人
ドラゴンボールなど
いわゆる超能力的な物語では
人が自由に空を飛ぶ
ガンダムという作品でも
ロボットが空を飛ぶのだが
実際人が空を飛ぶことは
できなくはない
しかし人が何かの人体のみでの
能力で空を飛ぶということは
多分難しいだろう
確かにある種の制約を踏まえて
スポーツ的に空を飛ぶことは
可能かもしれないが
孫悟空のように空は飛べない
この物理的に不可能なことを
想定することには
ただ空を飛びたいという
単純な現象を示しているわけでは
実はないのだろう
まあただの物語だからという
話で片付けてしまうならそれで
全てはお仕舞になる
そもそも物語は人の認識の
形であり人の存在の根底にある
出発点を比喩的に表したものと
いえなくもないから
この概念を想定した
そのイマジネーションは
何かしらの意味があるとも言える
イメージはイメージ現実そのものではない
イメージの世界で
想定できることは
現実でも起こりえるという
考えがあるが
現実になるといっても
本当に現実化そのままされるわけではない
先に述べた孫悟空の空中浮遊は
きっといくら能力が開発されても
人ができるようになるというのは
きっとないだろう
もちろん証明もできないから
確実とはいえはしないが
ジャンプしてかなり高くいくにしても
そこには力が重力とは逆に
働かなくてはいけないからだ
タコみたいに軽いものなら可能だろうが
人は相当重い
きっと未来どうなったところで
この物理世界では不可能だろう
まあメタバースなら可能だろうが
また例えばどこでもドアというあの
小さい装置で時空をゆがめて
瞬時に移動するというのは
かなりの物理学的な現象としての
現実を無視している
そもそもワープということが
できるのかというのは
はっきりいってわからないのではある
ワープするには光より早く動かないと
ならないのだがご存じかと思うが
光に近づくと物質が今と同じ状態を
維持できなくなると言われている
だからどこでもドアは
実際のところ人体が移動するということまで
可能にするわけではない
例えばそもそも生中継のテレビなどを
映像でみているもしくは
YOUTUBEのライブを映像でみることは
ドラえもん当時の認識だと
かなりとんでもないことでもある
現在人と手間さえかければ
映像の力で自分がそこにいかなくても
まるで海外を旅行しているように
感じることすらVRとLIVE中継を
使えばできなくはない
物理的な制約である物質の
現実の範囲内であればどこでもドア的な
ものは可能なのではあるが…
まあアニメや漫画のように
楽しいものではないかもしれない
また補足だが
インターネットの普及などにより
国と国との垣根も昔よりはかなり
なくなってきて
そもそも海外というものが近い存在
にもなっているこれは心理的な距離移動が
瞬時に今は行えるという何かしらの
環境が備わったということと
言えるかもしれない
つまりどこでもドアはドアというものを
どういう象徴で捉えるのかで
現実に可能かそうでないかが
決まるとも言える
作者のビジョンにはソースがあるが彼の主観がそれを現実化される形で表せないもの
人は主観から逃れられないという
解釈がいわゆる量子論的な
解釈からできなくもない
その意味で彼が受けた
イメージがそのまま
未来に形になるわけではないのは
確かなことだ
漫画やアニメやドラマは
現実であることはあり得ない
それは作者の主観的な世界の
範囲を勿論越えられないからだ
そこで思うのだが
その世界を単に楽しむという
エンタだけでもいいのだが
実際のところ感動を引き起こす
何かしらの元ソースがあるはずだ
提供した作者の主観つまり
それは2次ソースであって
そのもとになっている
イマジネーションが絶対あるはずだ
そして未来を予見したような
それらのものが将来現実のものに
なるときはこの主観が排除されて
ある種の客観この元ソースが
現実化される
作者が想像した過去の時点では
それはどういう形になるのか
実は想像できないものであり
彼の表現能力に頼るしかないが
この未来の現実
もしくはさらに確実となる人の
存在の現実を実は知りたくて
物語を読んでいる部分も
あることと思うが
もしそれならはどうすればいいのだろうか
だから重要なのは
作者の主観を超えて
その背後にどういう
科学的な現実があるのか
それを直接想定することが
できればできるほど
想像できる正しい未来が
見えることになる
世の中に満ちているメディアという主観なる2次ソースの背後には
ニュースというものは客観的だと
言われて久しかったが最近高ぶりつつある
量子論的な見方によって
ニュースの客観性の喪失というのが
言われてSNSとか自由なメディアの
中でないとある種信じられないと
そう想定する人さえでてきているのだが
よくよく考えると
SNSもこの主観のワナには
勝てないものである
形式ばった何かが
変化しやすいというだけであって
主観の範囲内である
そのことには変わりない
またニュースと違って
自由に言いたい放題もできるので
時にはとんでもないデマも
生じてしまうのである
このように自由になったことで
ある種現実の本当から遠ざかり
妄想が膨らむのであれば
何のための便利さと
なってしまうかもしれない
そのことについては人は
もっと思慮深くあり続けるべきなのは
明らかだから
自分で選択していかないとならない
これが実は自主性であり
そして判断力がつくということではある
ただし物理的というか自然の中にある
法則というある種の大原則には
沿わないとそれも問題である
この自然の大原則は制約のように
人に忍びよるものだが
それを無視することだけは
人はできないのである
この根源的なルールというものが
何であるのかそのすべてはわからないでも
掴み続ける努力はしていくべきであろう
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